第8話 平和と暴力の違い

 学校の屋上へ続く階段は、喧嘩を見に来た生徒たちで溢れかえっていました。

 人の壁が出来上がり、すぐそこに見える扉までの距離が絶望的のようにも思えてきます。

「……よし」

 自分の頬を軽く叩いて、気合を入れました。両手で人をかき分けるようにして進んでいきます。右に左にと揺れる人の波に流されながら、少しずつ前に手を伸ばしていく様子は、さながら流れるプールを逆走している気分です。進んでいるのか流されているのか、もはや分かりません。

「すみません……通ります……!」

 私を包み込む他人の体温がむせ返りそうになります。息を止め、一気に隙間に体をねじ込んでいき……。


 ついに、私は屋上に辿り着きました。


 目の前に広がる光景は、まるでドラマのようでした。

 五人の男子生徒と、猪川さんが睨み合っています。猪川さんの足元には、すでに二人の男子生徒が蹲り、痛みに苦悶の表情を浮かべていました。

「どうした、ここまで来て怖気づいたのか?」

 人数でも負けているはずの猪川さんは、笑顔というには邪悪すぎる表情で男子生徒に声を張り上げました。

 その声に、私まで呼吸を忘れてしまいます。

「こっちが静かに飯を食ってるのを邪魔しに来たかと思えば、ゴキブリみたいにうじゃうじゃ湧いてきやがって」

 足元で蹲る男子生徒の一人を蹴り飛ばします。小さい悲鳴が上がりました。

「や、やめろ!」

 男子生徒の一人が叫びます。


 それを聞いた猪川さんは、嬉しそうに微笑みました。

「や~めないっ!」

 そのまま、蹴り飛ばした男子生徒を上から踏みつけ、ぐりぐりと痛めつけ始めました。

「そんなに嫌そうにされたら、やりたくなっちゃうじゃん?」

「お前…………マジでぶっ殺す」

 男子生徒が三人、飛び掛かります。

 猪川さんは一切ひるまず、三人に真っ向から向かっていきました。

 一人目の拳を躱し、すれ違いざまに足を引っかけて転がします。それに気を取られた二人目の胸倉を掴み、鼻目掛けて頭突きをかましました。

三人目は猪川さんの腕を押さえますが、足を思い切り踏み抜かれ、痛みに膝をついた瞬間を蹴り上げられました。彼は大の字に仰向けに倒れ、動かなくなりました。

「雑魚かよ」

 物足りなさそうにぼやいた猪川さんは、最初に踏みつけた男子生徒を再び踏みつけました。

「さっさと尻尾巻いてどっか行けよ。お前らが消えるまで、私はこいつを痛めつけるぞ」

 踏みつける力が増して、悲鳴がさっきよりも大きくなります。

 あまりにも生々しい声が、私には恐ろし過ぎました。

 

 私は泣いていました。嗚咽はありません。ただ、涙がポロポロと流れてきました。


 男子生徒が狼狽する姿を見て、笑みを浮かべる猪川さんが悪魔にしか見えません。

 あれは喧嘩ではありません。暴力の域も超えています。

 彼女は、殺人に至ろうとしていました。


 足が震えます。歯が震えてカチカチと鳴ります。呼吸が浅くなります。目の前がぼやけて良く見えません。

 それでも、私は走り出しました。

 何も考えず、ろくに前も見ずに、まっすぐ猪川さんにめがけて全力で走ります。

「何をしてるんですか、あなたは!!」

「あ? お前は__」

 猪川さんが私に気付いた頃には、もう私が猪川さんを体当たりで突き飛ばしていました。

 油断した猪川さんは完全に体勢を崩し、派手に尻餅をついてしまいます。

「何すんだよ、お前!!」

「あなたこそ、何をしてるんですか!!」

 さっきまで踏みつけられていた男子生徒を上半身だけ起こし、汚れた服や顔をハンカチで拭いてあげました。

「痛っ……」

 頬を拭いた時、男子生徒の顔が痛みで歪みました。血が出ています。

「大丈夫です、怪我は酷くないですからね」

 その血を拭き取り、綺麗にしてあげました。

「おい、聞いてんのか__」


 私に怒鳴りつける猪川さんは、他の男子生徒に一発殴られました。そして、その隙にみんなが屋上から逃げていきます。

 私が介抱していた男子生徒も、他の男子生徒に肩を持たれながら人込みの中へ消えていきました。

「良かった……」

 あの人は、これ以上苦しまないで済みました。一安心です。


「何が良かったって……?」

 先に立ち上がっていた猪川さんが、私を見下ろしています。その表情は、怒りに満ちているのに、右の頬だけ殴られて腫れ、滑稽に見えました。

 不思議と怖くありません。自分が興奮状態にいるのは分かっています。

 だから、自分が止められないのです。

「暴力から人を救ったから、良かったと言ったのです」

「狂った正義感をお持ちのようで」

 一歩ずつ、私に近づいてきます。

 お互いの顔がすぐ目の前の所まで来ても、私は一歩も下がりませんでした。

「お前が代わりに殴られるか? あぁ?」

「殴ることでしか意思疎通が出来ないのですか?」

「あぁ、そうだよ」

 おもむろに突き飛ばされ、今度は私が尻餅をついてしまいました。

「何をするんですか!」

「その方が殴りやすいからだよ」

 私が立ち上がる前に馬乗りになり、準備運動のように肩を回し始めました。

 体が全然動きません。抑え込まれているという現実が、徐々に私の興奮を冷ましていきます。


 そして、残るのは恐怖心だけでした。

「一先ず、後悔させてやるよ」

「……後悔なんて、絶対にしません」

 自分に嘘をつきながら、歯を食いしばりました。

「あっそ」

 猪川さんの拳が振り上がります。

 怖い。

 怖いのに、その拳から目が離れません。

 男子生徒を簡単に倒す力を持つ拳は、今にも泣きだしそうな空に突き上げられました。


 そして、私も空も泣き出しました。

 突然の豪雨。

 やじうまをしていた生徒達も悲鳴をあげながら教室に戻っていきます。

「あー……最悪」

 空を睨む猪川さんの顔に張り付いた金髪の先から、私の頬に水滴を落とします。

「やってられっか。帰ろっと」

 猪川さんは、一切私に目を向けることなく、屋上から消えていきました。


 私は一人、屋上で大の字になっていました。

 大粒の雨が顔に容赦なく降ってきて、私を溺れさせようとしてきます。

 いっそ、溺れてしまいたいです。

 でも、それすら私は出来ないのでした。


 少ししてから、津田さんがびしょ濡れになりながら私の元へ駆け寄って、起こしてくれました。 

 体に力が入らず、私は立つことも出来ません。

「津田さん、有難う御座います。来てくれて」

 その言葉を、津田さんは泣きながら断りました。

「僕は何もできなかったよ……怖くて、みんながいなくなってからじゃないと動けなかったんだ……ごめん、ごめんね……」

 津田さんの声も涙も、雨に流れて溶けていきます。

 その顔を見て、私はまた涙が溢れてきました。


 私のしたことって、何だったのでしょうか。

 ただ平和にしたかっただけなのに。

 みんなが笑顔になれるって、素敵じゃないですか。

 でも、今は誰も笑っていません。

 私のしたことって、本当に平和だったのでしょうか。

 暴力と、何が違うのでしょう。 

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