第3話 弱肉強食

背中に伝わる圧力が凄いです。登山用のリュックを背負っている時よりもズッシリしています。

 たまに聞こえる大きめの溜息と舌打ちが一層気まずさを掻き立てていきます。粗暴な方のやることは理解できません。なぜ空気が悪くなることしかしないのでしょうか。

 不良少女の雰囲気のせいで、クラス全体が不自然な沈黙に包まれてしまいました。


 酸素が薄くなるような沈黙を破ったのは、数分後に開かれた教室の扉でした。

 静かに開かれたため控えめな音でしたが、今の教室にはうるさいくらいです。

 

 入ってきたのは、美しい女性でした。

 身長は私よりも、不良少女よりも高く、スタイルもモデルのようにスラっとしています。ちょっとした女性雑誌のファッションモデルよりもモデルらしいかもしれません。それでいて、健康的な力強さを感じさせる自信に満ちた表情。そしてパンツスタイルのスーツたるや、むしろ一般男性よりも格好良さとセンスを感じさせられてしまいます。長い黒髪は後ろで縛っているだけなのに、それが最適解のように似合っているし、非の打ちどころがありません。歩く所作すら芸術です。

 クラスからも、抑えきれなかった歓声が起こりました。女生徒の声もありましたが、特に男子の声が……。

「めっちゃ美人じゃん!」

 誰かが言いました。それを助長するように指笛を鳴らす人もいます。

 私の真後ろから舌打ちがまた聞こえました。でも今回のは同感です。もっとやっても良いのですよ?


「先生、彼氏いるの? 独身?」

 男子の一人が、ホームルームの中立ち上がり、ズカズカと教壇まで歩み寄っていきました。

 ポケットに手を入れ、見苦しいほどの蟹股で歩く姿は滑稽です。しかもガムまで噛んでいます。あ、膨らましました。まさかのフーセンガムです。

「座りなさい。今は授業中です」

 先生が初めて喋りました。静かな声でしたが、不思議としっかり聞こえてきます。

「あ? 座ってほしければ俺と付き合え」

「私は貴様のような馬鹿と慣れ合うつもりはない。息が臭いんだよ、さっさと離れろ」

 先生は無表情のまま、男子をまくしたてました。私なら泣いてしまいます。

 私の隣では、高梨さんが笑いを必死に堪えていました。恐ろしい子です。


 男子生徒はニコニコと一度頷くと、勢いよく教卓を蹴り飛ばしました。大きな音を立てて、ひしゃげた教卓が扉に激突します。

 扉の近くの席にいる私は、生きた心地がしませんでした。高梨さんは……泡を吹いて静かになりました。

「あんま舐めてると、痛い目見るぞ?」

「見せてみろよ、青二才」

 笑顔のまま威嚇する男子生徒に、先生はまだ無表情で挑発します。空気の悪さで、肌がピリピリしてきました。

 

 すると、私の背中に何かが当たってきました。

 気のせいかと思いましたが、気付いてほしそうに何度も背中に何かが当たります。

 …………。

 先生と男子生徒にバレないように、ゆっくりと後ろに目を向けると、不良少女がニヤニヤと私の背中を突いていました。

「……なんですか、こんな時に」

 もはや口パクのような小声で問いかけます。

「喧嘩が始まりそうじゃねぇか。暴力を止めなくていいのか?」

 私に合わせて小声で話してくれるのは良いのですが、そのふざけた内容は何なのでしょうか。

 全力で愛想笑いしてから、再び前を向き直します。


 それと男子生徒が殴りかかるのは同時でした。

 先生の胸倉を掴み、振り上げた拳をその顔にめがけて振り下ろします。

 先生は首を傾けるだけでそれを躱し、鼻で笑いました。

「しょうもない」

 それだけ言って、先生は男子生徒の胸倉を掴み返しました。

 身長に差は無いものの、体格は男子生徒の方がガッシリしています。制服の上からでも分かるくらいに筋肉質な体をしていて、目が合うだけで威圧されてしまいそうなくらいなのです。


 なのに、胸倉を掴まれた男子生徒が重心を少しずつ崩されていくではありませんか。

 胸倉を掴んでいるのは同じなのに、徐々に男子生徒の体が後ろに反れていき、ついに片膝を付いてしまいます。

「どうした? 抵抗しないのか?」

「お前……どうなって……?」

 涼しい表情の先生とは裏腹に、男子生徒は額に脂汗を滲ませていきます。

 その様子に、教室がざわつき始めました。

 先生の強さに更に驚く声もそうですが、様子を見ていた他の男子生徒が騒ぎ始めました。

 雑魚だの、本気出せだの、女に負けるななど。

 ここは動物園でしょうか。猿の鳴き声しか聞こえません。

「おらおら! 根性見せろや!」

 後ろの席からも鳴き声が聞こえます。


 先生に抑え込められた男子生徒は、声が漏れるほどに力を込め、先生を少しずつ押し返していきます。

 よほどクラスメートに煽られたのが癪に障ったのでしょう。プライドを守るための力が、男子生徒に闘争心を再度芽生えさせました。

「うるさい」

 それを、先生は容赦なく床に押し潰しました。

 男子生徒の渾身の力を、いとも簡単に、片手で。

 教卓を最初に蹴り飛ばしていたせいで、その恥ずかしい姿を完全に晒してしまいました。

「くそが!」

 床に倒された状態で、先生の首を掴み、力の限り握り締めます。

 指が細い首にめり込み、そのままへし折れてしまいそうな勢いでした。


 なのに、先生は笑っていました。まるで、その瞬間を待っていたかのように。

「貴様らに良いことを教えてやろう」

 首が絞められているにも関わらず、普段と変わらぬ声ではっきりと、あろうことか私達生徒全員に話し始めました。


 そして、空いた手をそっと男子生徒の首筋に添えていきます。

「私は今日から貴様らの担任を務める、霧島美香子だ。主にホームルーム等の管理と、数学を担当している」

 先生は首を絞められながら、男子生徒の首筋をそっと指でなぞりました。その姿は、この殺伐とした景色に似合わぬほどの妖艶さすら持ち合わせており、女性の私でも息を飲んでしまいます。

「基本的に私も、学校側も、成績さえ維持・向上するなら君らの行動に対し一切の関与をするつもりはない。群れをなして騒ぐもよし、休み時間に喧嘩するもよし」

 首をなぞり、人差し指と親指で、男子生徒の首をそっと押さえつけました。

「だが、成績を落としたし、この馬鹿のように危害を加えようとしてくるなら、容赦なく反撃させてもらう。これは正当防衛、れっきとした教育だ」

 首に指を押されただけなのに、男子生徒の顔色が見る見るうちに青くなっていきます。先生の首を握り締めていた手も徐々に握力を失い、最後には首を離してしまいました。

 そのまま、男子生徒は小さく痙攣を起こしながら失神してしまいました。

「もし我々の教育に物申したければ来るがいい」

 気を失った男子生徒から手を離し、鳩尾に一発拳を打ち込みました。殴るというよりも押し込むような一撃がめり込み、男子生徒は激しく咳き込みながら意識を取り戻します。

 そして、まだ朦朧としている彼に、そっと伝えたのです。

「自分から喧嘩を吹っかけておいて、負けたから訴えるという恥じを受け入れるならな」


 先生はそのまま男子生徒を立たせ、最初の無表情に戻ります。

「座れ」

 男子生徒は、もう抵抗しませんでした。


 先生はひしゃげた教卓を横目に、そのままホームルームを始めました。

「これから三年間、よろしく」

 誰も返事はしませんでした。出来ませんでした。


 後ろの不良少女だけが、興奮気味に口笛を吹いていました。


 この学校は、私の想像を遥かに遥かに超える、暴力の巣窟なようです。

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