ロストタイムロストメモリーズ

梔子

First name

01.無制限ロード&ロード(unknown)

 鈍い音が部屋中に響いた。真昼間、高校の女子トイレに私ともう一人の少女。少女は壁際に倒れこみながら打ち付けた頭を抑えている。私はそっと拳を撫でた。


 無論だがこれは事故では無い。少女は落ちた眼鏡を拾い顔にかけるとゆっくりと立ち上がる。私は彼女が立ち上がるのを待ってからもう一度、拳を顔に突き出した。当然のように直撃した拳と、リプレイ映像のように倒れこむ少女。私は彼女に近づきその体を踏みつけた。


 ここには、私たちしかいない。


「まじでいい加減にしろよてめぇ」


 出したくても出せなかった、パンパンに膨らんだ感情が私の内から吐き出されていく。それはまるでクジラの潮吹きのようだった。一度溢れたら止まらず、体が言うことを聞かなくなる。結果的に私は彼女をトイレへと追い込んでいた。


「てめぇのせいで、冬子が……」


 少女を踏んでいた足を離し、振りかぶり、お腹を蹴り上げる。彼女はうめき声を上げ、お腹を抑えた状態で固まってしまう。


「お前もあいつと同じ目に合わせてやるよ」


 髪を掴み自分の視線の先まで持ち上げる。肩まで切りそろえられた短い髪だが、手入れがしっかりされており指がよく通る。こんな時にまで冷静な自分がいることが許せないが今は少女の相手が優先だ。


「……えが」


「は?」


 少女の発した微かな声が聞き取れず私は聞き返す。わざわざ聞いてやる必要はなかったが気になったので、私は少しの間沈黙に身を任せた。


 だがそれは間違いだった。


「お前が全部悪いんだろうが」


 顔を上げた少女の表情は、まるでこの世のものとは思えないものだった。怨み、怒り、憎しみ、全てが凝縮され練成された凶悪な感情。それを今、表情でぶつけられた気がして私は少しだけ動揺する。


「私を許さない? ふざけんな、どいつもこいつも被害者面しやがって。私がお前を許さないんだよ!」


 言い終えもしないうちに、少女は眼鏡を私に投げつける。突然のことに体が動かず眼鏡は顔面へと直撃、私は思わず後ろへと倒れこみ腰をついてしまう。これまで彼女は私に反撃してくることはなかった。だから今回も大丈夫だと高を括っていたが、どうやらそう上手くはいかないようだ。


 前方へ目をやると、少女は手に折りたたみ式の小型ナイフを握り真っ直ぐ私へと向けている。本格的に危険な状況に、私は一切動けずにいた。


「死ね、死ね!!」


 少女は躊躇いなく私へナイフを振りおろす。


 これはもう駄目だ。私はすぐに目を閉じた。まさかこんなに早く命を落とすとは思っていなかったが、こいつの前で惨めに生にしがみつくような醜態は晒したくない。潔く、とは言わないが死ぬなら安らかに死にたかった。


 しかしいくら待っても何も起こらない。刃物による衝撃も痛みも、何一つ感じることなくただただ、時間だけが過ぎていった。


「……芽依?」


 恐る恐る目を開いてみる。


 初めは薄っすらと、そして徐々に大きく光が視界へと入り込んでくる。突然の光に眩しさを覚えて目を閉じかけるが、やがて少しずつ慣れていき目が本来の役割を思い出し始めた。


 そしてようやく映り出した景色には緑あふれる自然、木々や河川、そして広大な草原が広がっていた。トイレ、に類する人工的建造物など、どこにも見当たらない。


 そして……


「め、芽依は? それにここはどこ?」


 つい先ほどまで近くにいた少女、下野芽依(シモノメイ)の姿までもが消えていたのである。











 1話…無制限ロード&ロード(unknown)











 瞬きをいくら繰り返しただろうか。私は思考が停止されたまま時に身を任せ、生きている実感もないまま、ただただ呆けていた。


 しかし斜め前に見えていた影が真正面に移動したのに気づいた時、ようやく私は自分が置かれている状況は自ら打開せぬことにはどうにもならないことに気がついた。


「ここは、天国?」


 綺麗な空気、日本とは比べものにならないほど鮮明に映し出された世界に私は目を奪われる。木々が柔らかな音を立てながら風に揺れる様も、悠々と流れる川に写る太陽の光によるハイライトも、綺麗に生えそろった草原の波も、幻想的な程に美しく、作り物めいた世界。それはまさに天国と呼ぶに相応しい場所のように思えたのだ。


 しかし、ということはつまり、私はやはり死んでしまったということなのか。胸に手を当てる。しかし当然のように心臓はそこに健在しておりドクドクと存在を主張している。


 ダメだ、天国だと思い込むにしてもあまりにも情報が足りなすぎる。


 見知らぬ景色の中で動き回るのは得策とは言えぬ気もするが、これだけ音沙汰が無いと不安になるのは当然の話。私は少しだけ重い腰をあげると改めて辺りを見回した。すると確認の済んでいなかった後方に煙が上がっているのが見えた。煙の足元を見るも木々と草原以外には何も見えないため、それなりに距離はありそうだが、どうやら人は存在しているらしい。


 もしかすると山火事かもしれないが、そもそも死の世界に山火事の概念があるなんて到底思えないので、どちらにせよ生きていることは間違い無いだろう。


「これで死んでたら笑えるけど」


 それから私は足首を犠牲にひたすら時間と体力を移動に費やした。人間が飲まず食わずで生存できるのは三日が限界だとどこかで聞いたことがある。危険も承知で、先程の川から水分は補給できた。つまり今からあと三日以内に誰かと遭遇しなければならないわけだ。もっともその前に水分に含まれている未知の要素が引き金で死ぬかもしれないが、無意味な不安は今は邪魔なので捨て置く。


「殺されかけた直後だからかわかんないけど、こんな状況なのに凄く落ち着いてるな、私」


 土踏まずに少しだけ疲労を感じ始めた頃に漏れた独り言、しかしその言葉はじわじわと心に広がり、まるで身体中に流れる血液のように全身へ巡ると、やがてゆっくりと消えた。不安、とも違う違和感、よくわからない感覚だったが、私はその感情を何故か大切にしたくなった。


 それからどれ程歩いただろうか。気づけば太陽は真正面にでかでかと見えており、最初は短かった私の影は今や比べものにならないほど大きくなっていた。


 歩みを進めれば進めるだけ不安は溜まっていく。何せ景色は依然変わらず、視界にあるのは木々と草原のみなのだ。おまけに前方に見えていた煙は途絶え目印となるものは何もなくなってしまった。太陽のおかげで進むべき大体の方角はわかったが、それだけで安心できるほど私は楽観的な性格はしていないのだ。


 まあそもそも孤独に置かれた状況に安堵などあるわけないのだが、少しでも安心材料が増えるに越したことはない。だがいくら考えを巡らせたところで募る不安が消えることはなかった。


 結果、人と出会う前に日没を迎えてしまい、その日はそこらに立つ木に寄りかかり体を休めた。そういえば、今のところ生き物らしい生き物を何も見ていないが、こんなところで無防備に休んでも問題ないのだろうか。


 いいか。死んだら死んだで。


 眠気が勝り、先程までフルに回転させていた思考が霞んでいく。嬉々とした感情を身体から受け、私は思わず笑みをこぼす。


 後のことは明日に任せよう。今日はとにかく休みたかった。











 暗闇の中に立っていた。前後上下左右、全方向どこにも光は無く、私は自分の掌さえ認識することができない。


「自然の中に放り出されたかと思ったら今度は暗闇?」


 悪態を吐くも返事はない。ただ狭い場所にいるのか、その声はやたら反響した。


 意を決して手を伸ばす。一歩前に出たり、伸ばした手をあちこちへ動かしてみる。しかし壁らしきものの感触はない。あるのは虚無のみ。いやそれすらあるのか、私に理解する術はない。


「どうして?」


 不意に聞こえた声に、私は目をいっぱいに開いてすぐさま振り返る。私の声じゃない。ここには、私以外にも誰かがいる。


 恐怖心が煽ってくる。何も見えない、何も聞こえない、でも今の声は何、ここはどこ、誰がいる、誰かが私を見ている?


 いや、ここで取り乱してはダメだ。細心の注意を払って耳をすます。足音、息、服の擦れる音、誰かがいるのならばまだ何もできないって決まったわけじゃないんだ。頼れるのは音しかない。今は少しでも多く情報を掴まなければ。


「どうして……」


 また聞こえた。先程と同じ声。か細くて弱くて、聞き馴染みのある声だ。私はこの声の主を知っている。


「ねぇ、あなたは誰? ここはどこなの?」


「どうして……」


「!……な、何!?」するとその瞬間、首元にひんやりとした感触が芽生え、私は後方へと飛んだ。相変わらず目視では何も確認できなかったが、触れたのは間違いなく何者かの手だった。ちゃんと、人の手だ。


「どうして、私をいじめるの?」


 弱々しい声はさらに弱々しく縮んでいき、そしてついには嗚咽交じりになる。そして見計らったかのようなタイミングで、前方で何かが崩れる音がして、それに続くように泣き声が聞こえた。声は、小さいのに何故か耳に強く響いてきて、私は胸に手を当て服を強く握りしめた。


 知っている。この声の主を、私は知っている。


「……芽依なの?」


 泣き声はやまない。延々と続く声が反響を繰り返し、周りの空間を歪ませる。


 一生このままでは拉致があかない。私は彼女の元へ行こうと足をあげようとした。


「な、何これ、動かない?」


 見ると足元には黒い膜のようなものが何重にも張り付いており、私の動きを阻害していた。しかも膜は足首の方へと活動範囲を広げており、少しずつ私を飲み込もうとしているように見えた。


「え、見える」


 足元の黒い膜のインパクトで気づかなかったがいつの間にか私の視界はその力を発揮してた。どうして見えるようになったのか、いつから見えるのかの記憶も定かではないが、彼女の姿を確認できるのは今しかない。私は思い切って前方へと顔を向けた。


 そこにいたのは、芽依じゃなかった。


 黒い靄と赤い体で構成された何か。影がそのまま出てきたかのような不安定な体のように見えて、何故か血肉を宿らせているような生命力を感じる。表情の見えない黒い顔には目と思わしきパーツ以外存在せず、泣き声や嗚咽が漏れるはずの部位も見当たらない。化け物だ。目の前にいるのは芽依の生態を宿しただけのただの化け物だった。


「あなたが私を虐めた。あなたが私を」


 すると、下を向いたまま立ち止まっていた化け物が私を直視した。そして体を引きずりながら私の目前までやってくると、霧のような線のない体を徐々にはっきりとくっきりと形取らせていく。化け物だったそれは次第に本格的に人へと形成されていき、やがてそれは下野芽依へと変貌した。


「あなたが、私を虐めた」


 そして私の首元へと手を伸ばすと、ゆっくりと掴んだ。


「芽依に化けて、あなたは何をしたいの!」


「あなたが、私を虐めた」


 彼女の目から赤い涙が溢れる。少しずつ、掴まれている指に力が入り呼吸が苦しくなる。


 逃げ出そうにも足元は膜で覆われているので、思い通りに動けない。絶体絶命の状況。手も足も出ない私はされるがまま化け物の行動を受け入れるしかなかった。体験したことのない恐怖が体内に渦巻く。


「死ね、死ね」


 喉に食いこむ冷たい指の感触、それとは裏腹に私の喉元には熱が集中する。次第に息ができなくなってきて意識が遠のいていく。


「誰か……助け……」











「おい、大丈夫か!」


 鼓膜に強い衝撃を感じ、私は思わず飛び上がった。心臓が激しすぎるくらいに波打ち、呼吸が乱れる。


 あたりを見回すと、どうやら草原の中心へと再び戻ってきたいるようだ。しかも未だ夜は明けず、月明かりがほんのりと暗闇を照らしている。


「やっと起きたか、死んでんのかと思って心配しちまったぜ」


 眠っていたのか。確かに物凄く恐ろしい夢を見ていた気がする。どのくらい眠っていたのか知りたいところだが、日が沈んでいる今それを確認することはできない。


 私は一度深呼吸をしたのち、前方に立つ人影へと目を配る。口ぶりから察するに、ここに一人でいる私を心配して声をかけてくれていたようだ。月明かりによる逆光でその姿はシルエットにしか映らないが、かなりの巨漢だということは見て取れた。


「あの、声をかけてもらって助かりました。ありがとうございます」


「良かった良かった。いや、無事ならいいんだ。こんなところに一人で寝てるやつなんて今まで見たことがなかったもんでね、色々心配になっちまって。もしかして余計なお世話だったかな?」


 重くズッシリとした低い声が軽やかに言葉を刻んでいく。その言葉遣いから、シルエットの中で彼が困ったようにはにかんでいる姿が容易に想像できた。


「いえ。丁度、人を探していたところだったんです」


「そうかい」大男は優しい足取りで私の元から離れるとシルエットにならない場所へと移動した。恐らく向こうも自分の影になった場所にいた私をはっきり認識できずにいたのだろう。そういう意味では私たちはここで初めて顔を合わせることになる。


 だが、相手の容姿は私の想像していたものとは幾分もかけ離れたものだった。


「じょ、嬢ちゃん? その見た目は?」


 目を丸くして驚きをあらわにする彼と、そんな声など耳に入らずその場で呆然と立ち尽くしてしまう私が対峙する。


 少し情報を追加しよう。


 全身が鱗のようなもので覆われ、頭には二本の角、筋骨隆々の肉体と特徴的な尾を持った人のシルエットをした何者か、と、肩ほどの黒髪を風になびかせる、鱗も角も持たない細身の私が対峙する。


 彼は確かに人型ではあれど、人間とはあまりにも違う姿をしていたのだ。


「あなた、なんなの!?」


「それはこっちの台詞だ。お、お前こそ一体……」


 満月の発した光が、真っ直ぐ私たちの本当の姿を写し出し足元に線の薄い影を作る。龍と人間を混ぜたような見た目の大男と、人間の私。二人は全く違う存在でありながら邂逅の瞬間、全く同じ反応を見せ合いそして、互いの瞳をじっと見つめた。


 その夜は、私にとって途方もない長い夜となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る