彼女の人格

@ungo

彼女の人格

 僕には付き合っている彼女がいた。僕には不釣り合いなほど賢く、美しい女性だ。

 出会いは大学入学後間もない、サークルの新歓コンパだった。

初めて見た時から、女性経験のない僕の目には、彼女は一際可愛く見えた。それは周囲も同様だったようで、学年関係なく彼女に声をかける男は多かった。僕もお近づきになりたかったが、彼女にそんなありふれた男と同じだと思われたくなくて、ただ遠くからチラチラと様子を伺っていた。たくさんの男に声をかけられる彼女は、それを鼻にかける風でもなく、笑顔で一定の距離を保ちながら会話を弾ませていた。そんな接し方もまた、僕の心をくすぐった。

桜の木の花びらが側溝の中でゴミになった頃、僕らはそのサークルに入会した。季節の移り変わりとともに、四苦八苦しながらあの手この手でアプローチを仕掛けた僕は、その冬、二度の告白を経て交際をスタートさせることができた。

みんなのマドンナである彼女を口説き落とした僕は、男の嫉妬の感情を浴びながらも当時はまるで英雄のようだった。

 そんな告白から三ヶ月たったある日、僕の前にいたのは、怒気とも狂気とも取れる表情を顔に湛えている彼女だった。

暖色が多く女性らしい部屋。暗い窓についた水滴がこの部屋の明かりを反射させて光っている。

目の焦点を彼女から、彼女越しのその水滴の一つに当てて、また彼女に戻した。急に目に力を入れたからか、彼女を見ているつもりが、視界の真ん中の一点以外全てがぼやけて見える。夢を見ている気分になってきた。強く瞬きをして改めて彼女をみる。髪を振り乱し、目には涙を浮かべてこちらを睨みつけている。美しいその顔は酷く歪んでいる。怒りからか肩で息をする彼女の足元には、彼女の衣類や物が散乱していた。

「ねえ、なんでわからないの!どっかいって!」

付き合って三ヶ月、彼女は定期的にこのように怒り狂うことがあった。

荒れる彼女に圧倒される僕は、冷静に思考をめぐらせる。

なぜこうなるのか。


 僕たちの間にはルールがあった。帰りは一緒に帰るとか、週に一回は絶対にデートにいくとか、内容は多少違えど、どこのカップルにもあるようなありきたりなものだ。この二人の間のルールは彼女の意見によって決まった。ルールを作りたいという彼女に、こだわりが強い方ではなかった僕は彼女の提示するルールを全て呑んだ。数少ない僕の要望は彼女の価値観に沿うものだったため、意見も割れずにすんなりと決まった。

 けれど、ルールを守れないのは決まって彼女の方だった。それを指摘すると彼女は激昂した。それでいて、僕が破った時にはきつく問い詰めてくる。理不尽だと思った。自分で守れないルールならいらないし、それを相手に強要するのはおかしいではないか。

だが、揉めたくなかった僕はその度に謝ってやり過ごしてきた。

僕が愛した彼女は本当に今のこの彼女と同一人物なんだろうか。

そんな考えが頭に浮かんだ。


 ある日、大学の哲学の講義で「人格の同一性」について教授が説明していた。未来に存在する私は本当に同じ私か、という形而上学の有名な問いである。

一見わかりきったことであるように思えて永遠に答えが出ないこの問いに、僕は縋るように魅了された。コロコロと態度が変わる彼女に理由をつけたかったのだろう。

 彼女は定期的に、記憶や欲望や意図などを内包した、魂のようなものがごそっと抜け落ちてしまい、コピーが新しい魂として彼女の中にはいる。コピーだから完全ではなく、どこかに齟齬が生まれ、感情がおかしくなったりしてしまう。今の彼女は、次の瞬間には同じ彼女であるようでいて全く別の彼女なのだ。

本気でそう思った。

 それから彼女の目が怖くなった。普通に会話をしている時も、ベッドの中で彼女が愛をささやく時も、目の奥には深淵が広がり、意識が吸い込まれる心地だった。常に彼女が嘘をついているように聞こえて鳥肌が立った。もはや最初の彼女とは完全に別人だと思うようになり、彼女との時間は僕にとってただの苦痛になってしまった。

 僕は彼女に別れを切り出した。彼女は驚くほどあっさり、それを受け入れた。


 夏は深まり、鬱蒼とした木々の中で蝉が必死に生を実感していた。歩いていく彼女の後ろ姿を見ながら、僕は思った。

 彼女の人格はどこにいったのだろうか。

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