くじらのねむり(かわいいあの子はウオノエ系 番外編)

「じゃあさ、埋めちゃえば良いんじゃないかな」

なんでもないことのように依未(えみ)ちゃんは言ってのけた。

いつまでも童女のように純粋な性格で、僕の前だとニコニコ笑って無邪気な好意を全面に押し出す。

僕の世界にはあなただけ、僕の最愛の人。

室内は夜の静寂に包まれていて、 窓から見える景色は月光の底に沈んでいる。

ふと、僕はこれが夢だと気づいた。

依未ちゃんは目の前で、デフォルメされた猫がプリントされたマグカップを持ち上げて、口をつける。

白いお皿からチョコチップクッキーを摘んで、ごく自然に言う。


「あ、どうしよう!牛乳ってまだあったっけ?……全部のんじゃった。冷蔵庫にまだ飲み物あるかな?無ければ、お茶とか作るね」

母校である高校の制服を身につけた彼女は、三年前に見た姿のままで、人を逃さぬ魅力はどれだけの月日が流れても健在だった。

依未ちゃんはダイニングチェアから立ち上がる。

ルーマニア製のダイニングチェアは座席が黒く、背もたれのデザインが洒落ている。

僕が大学生になってから購入したものだった。

僕は茫然と彼女を眺めている。

僕が自殺未遂にまで追い込んだ女性だ。

どうしようもなく可哀想で可愛いらしい彼女。

死んで欲しくはなかったのに、学校の屋上から飛び降りることを求めたのは紛れもなく僕なので、僕が自殺幇助をしたことになる。


そんなことすらも、実際はどうでもいいのかもしれないけど。

大切なのは過程じゃなくて現状だろう。

依未ちゃんはあの日から意識が戻らず寝たきり状態のはずなのに、今僕の目の前で動いている。

僕の家の台所を弄り回して麦茶を作っていた。

そして何故か、本当に不思議なことに、依未ちゃんの死体が、僕の真横に転がっている。

魂の抜けた彼女の器は、それでも造形的な美しさは一切損なわれておらず、生前の面影を強く残していた。

しかし、生きていたときのような明るさは消え失せて、彼女は凍りついた無感動とでもいったようなものを肉体に纏っている。


夢の中の依未ちゃんは幽霊なのに随分と実態的で、台所に行く途中で自分の死体をニーハイソックスに包まれた可憐な脚で邪魔そうに押しのけた。

それを見て、僕は恥も外聞も捨て大声で喚き散らして嘆きたくなる。

涙を堪えるように歯を食いしばる僕を見て、依未ちゃんはギョッと驚いた顔をした。

「どっ、どうしたの?ふゆくん。大丈夫だよ!困ることとか別にないし!」

麦茶のボトルを冷蔵庫に入れると依未ちゃんは慌てたように戻ってきて、再び僕の隣の椅子に座る。

悪い夢だとわかっていても、愛する人が近くにいるというだけで安堵してしまう自分が情けない。


「あなた、だって、……僕のせいだ。ぜんぶ、僕が悪いんだ。僕がおかしかったんだ。なんで、なんで、もっと大事にしてあげられなかったんだ。あなたしか居ないのに、僕にはあなただけで良いのに、どうして、どうして」

「うんとね……ふゆくんは、わたしの死体が自分の近くにあるから困るんだよね?じゃあ、埋めちゃえば良いんじゃないかなー。なんなら、わたしも手伝うよ」

「ちがうよぉ……」

「でも、わたしがやった方が証拠にならないんじゃないかなって、思うんだけど……」

彼女は困ったように頬を軽く引っ掻いた。

冗談にしては笑えない。

依未ちゃんがチグハグな発言をするのは、これが所詮は夢だからだろうか。


嗚咽が込み上げてくる。

精密な人形染みた彼女の死体は変わらずにそこに居て、ほとんどの温もりは消え失せていた。

依未ちゃんの綺麗な顔が二つこの部屋にある。

気が、変になりそうだ。

否、きっとずっと前から僕は気狂いになっていたのだろう。

純白の月明かりに照らされた、死体が転がっている。

「け、警察に……い、い、行かないと、僕」

「なんで?わたしが良いって言ってるのに?そもそも飛び降りたのはわたしの判断で、ふゆくんが裁かれる要素はなんにも無いんじゃないかな」

「でも、で、でも、警察に」

「そんなことよりはやく埋めちゃおうよ。へいきだよ。だれも気づかないよ。バレたりしないよ。大丈夫。バレるわけない」


依未ちゃんは甘やかすような口振りでさらさらと言葉をこぼした。

黄色を帯びた綺麗な琥珀色の瞳は微かに濡れて美しく輝いている。

僕を許すとか許さないとか本当は憎んでるとか、そういったことは言わなかった。

これが僕の求める彼女の在り方なのだとしたら、僕が彼女に抱く感情は最低最悪だ、今すぐ死んだ方が良い。

「でも、そっか。どうしようね。このままだと大きいかな。うーん、お風呂場に運んでから、まず少しバラそっか。ずっと床に転がしとく訳にもいかないし……」

「い、嫌だ。絶対に嫌だ」

「じゃあ、ふゆくんは何もしないで!ぜんぶ、わたしがやるから!まかせてよ」

「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!」


「ふゆくん、ごめんね。買い物だけは頼まないといけないんだ。ゴミ袋とか……それに包丁だと、ちょっと難しい気がするんだよね」

やけにリアルなことを話す夢だ。

僕はバラバラに解体された依未ちゃんを想像して吐き気がした。

まるで、腐敗した肉を目の前に突きつけられてるようだ。

死体処理に必要な物事を順々にあげていく依未ちゃんに対し、僕は譫言のように嫌だ嫌だと繰り返す。

依未ちゃんは駄々をこねる小さな子供を見る優しい母親みたいな目つきで、困ったように笑った。

冷たいフローリングの上で、死体は転がっている。


視界がチカチカと瞬くようで、暗い奈落の底にいるような寂寥感に苛まれた。

「へいきだよ。ぜんぶ、へいき。わたしはふゆくんがいっとうすきだから」

何も、平気じゃない。

胃から今晩食べていたコンビニ弁当がせり上がってくるような錯覚に陥る。

僕が依未ちゃんの愛情を試すような行為をしなければ、一緒に暮らして楽しくお喋りをしながら夕食を食べるような日常もあったんだろうか。

もし叶うのなら、彼女の好きな物だけを作って、沢山食べさせてあげたかった。

夢の中ですら思いのままにならない、死体は転がっている。

依未ちゃんの華奢な手が僕の背中を宥めるように撫でた。

彼女は、一体どうして嬉しそうに笑っているのだろう。

精神が腐る、ような気がした。

屋上から飛び降りたのが僕だったなら、こんなことには、こんな風にはならなかっただろう。

魚野依未の死体は、ずっと転がっている。


▼ E N D

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