さめのは(どうせ堕ちるなら此処が良い 番外編)
キュートガールなワシが十歳の時だ。
地元で唯一の市立図書館で、『やぎのめ少女』という小説で人生を変える絵を見た。
悪魔のように無垢な少女の挿絵である。
その絵を見た瞬間、まるで頭を殴られたようなショックが全身を貫いたのだ。
それからワシはこの絵について三日ほど考え、自分でもマーカーを使ってはじめて絵を描きあげた。
ワシの作品第一号である。
ワシの傑作を同級生に見せると、相手は決まって顔を顰めて「お化けみたいでヘン」と言う。
ワシは自分の世界の魅力を理解しない同級生達に涙が出るくらいがっかりした。
ワシは再び絵を描いて、今度は大人である担任に「この絵なんだかわかる?」と聞いて作品第二号を見せた。
すると、担任は口をへの字に曲げて「そういう絵を描くのは良くない」と答えたのだ。
ワシは女子トイレに駆け込んで、一人で声を殺して泣いた。
ワシの傑作第一号も第二号も認められない世の中に、かなしくなったのだ。
誰もワシの絵の良さを分かってくれない。
その事実に、まったくすべてがいやになってしまったのだ。
ワシは世捨て人として余生を過ごすと決めた。
退屈な小学校からエスケープして、自室に篭城することにしのだ。
しかし、しばらくしてワシはママ上に病院へと連れていかれた。
三十分ほど電車に揺られてたどり着いた大学附属病院の待合室は、病院なのに薬の匂いが薄い不思議な場所だ。
名前を呼ばれて、診察室に入る。
「何か身体の不調はありますか?」という医者からの問いに「はやくしにたい」と答えると朝と夜に薬を飲むことになった。
病院からの帰り道、ママ上が泣きながら謝ってきたことを、今でも覚えている。
小学校の卒業式には出なかった。
世捨て人をしている間に誰かと会うのがいやになってしまったからだ。
中学生二年生になって、ワシは保健室登校を始めた。
通学頻度は一週間に一度程度で、勉強は頑張ればギリギリ追いつけるか追いつけないかくらい。
保健室の一角にある大きなテーブルにスクールバッグと教科書を置き、パイプ椅子に座って勉強を開始する。
校舎に響く生徒達の声をBGMにしながら、渡されたプリントの問題を解くのだ。
保健医は付きっきりなわけではなく、基本的には放任スタイルである。
勉強の他には、絵を描いたりして過ごした。
一人でいると作品制作が捗るから好きだ。
ワシは人見知りなのだ。この学校には美術部があるらしいけど、顔を出す気はなかった。
近くに同級生の気配を感じると、否が応でも絵を描く手が止まってしまう。
作品制作を中断させられると、カピバラのように温和で無害なワシもついつい「うー」と唸りたくなる。
同級生とは出来るだけ話したくない。
何を話したら良いか分からないし、どうせワシの絵を見たら変だと笑うに決まってる。
そんな相手に貴重な時間を割くなんて真っ平御免なのだ。
時は金なり、タイムイズマネー。
そうだ、今日はお金持ちのおじさんの絵を描いてみよう。
髭が生えていて、オシャレな帽子をかぶっていて、マッチョなのが良いだろう。
ワシは筆箱から練り消しと鉛筆と三色ボールペンを取り出した。
三色ボールペンはアクセントの色をつけたい時に便利なのだ。
落書き帳の上に鉛筆を走らせていると、ガラガラと保健室の扉が開く音が聞こえ、ワシは急いで顔を伏せて寝たフリをした。
保健医はしばらく、女子生徒と言葉を交わしていたが。
「おい、楽々浦(ささうら)。敷島(しきしま)が絵の描ける人を探してんだってさ。友達になれば良いんじゃないか」
「え?」
名前を呼ばれ、思わず顔を上げた。
敷島と呼ばれた女子生徒は黒髪を二つ結びにしていて、眉間に皺を寄せている。
見るからに不機嫌そうで、少しこわい。
ワシはブンブンと首を左右に振った。
「どんな絵を描くの?見せて欲しい」
じたばたと手を振って無力さをアピールして助けを求めるけど、唯一状況を変えられるであろう保健医はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「見せてやればいい。さっきも描いてただろう」
無茶な要求にワシの頭はまっしろになった。
「あ、あ、あ……」
ワシは震える手で落書き帳を差し出す。
落書き帳をペラペラとめくる敷島さんは、相変わらず口をへの字に曲げていた。
ワシの頭の中で、過去の色々な嫌な記憶が現在と連結される。
「あっ、あ……変だから!変だから!ワシめちゃくちゃ下手だし!あんまりちゃんと見ないで!」
ワシは三色ボールペンをカチカチとノックした。
落書き帳を奪い返して、いままでの絵をすべて黒色で塗りつぶしてしまおうと考える。
全部がめちゃくちゃになれば良い。
大して上手くもないんだから、壊れてもいいじゃないか。
ワシが作品にかけた願いなんて、きっと誰も気にしない。きっと彼女だって。
「変じゃない」
けれど、敷島さんは答えた。
ワシの落書き帳をじっと見つめたまま、繰り返す。
「変なんかじゃないよ……上手だよ」
その言葉に、ワシの視界は歪んでぴかりと白く光った。
ぽろりと何の変哲もない生理食塩水が頬をつたう。
最初の涙が溢れてしまうと、あとはもうとめどがなかった。
落書き帳を閉じた敷島さんはギョッとした顔でワシの方を見る。
「えっ、なに……?ごめん!見られるのそんなに嫌だった!?でも、すごく素敵だよ!」
「あっはっは。敷島が褒めまくるから楽々浦は感極まって泣いちゃったんだろ」
ワシは嗚咽を漏らしながら何度も頷く。
ワシの描いた絵を受け入れてくれる人がいる。
ワシの好きなモノを認めてくれる人がいる。
それがワシの中でどれだけ大事なことか!
「そ、そんなに?!わたしの感想で良ければ、いくらでも。だから、また見せてくれたら嬉しいなー。なんて……」
「ぐすっ、見せる……いっぱい、ワシ、上手くなるから」
泣きながら鼻水を垂らすワシに向けて、保健医がティッシュを箱ごと渡してきた。
その日からだ。
ワシは自分の絵を理解しない他人を少しだけ好きになれた。
敷島さん曰く、うちの中学の美術部はゆるい雰囲気で、同じ学校の生徒なら部員でなくても部誌に絵を掲載してくれるらしい。
そもそも敷島さんは美術部員の友人に頼まれて、部誌の新コーナーである美術部以外の人間の描いた絵を載せるという無茶ぶりに付き合ってくれる生徒を探していたという。
「無理にとは言わないけど……どうかな?」
敷島さんが、窺うような視線を向けてきた。
ワシはピースサインを突き出して宣言する。
「ワシは常に自分の全てを愛する作品(せかい)の為にギブするよ!」
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