2-1 始まりの季節もぐうたらに

津久志つくしくん、今年も春が来ましたねえ」


 4月上旬の昼下がり、リビングではニュース番組を観ながら珍しく正座をして緑茶を啜っている叶実かなみさんの姿があった。


 いつもはソファの上で寝転がったままの彼女だが、ほのぼのとした表情を浮かべてテーブルに置いてあるみたらし団子を食べている様は、見ているこっちにも癒しを与えてくれる。


 しかし、正座はしているものの、服装はいつものピンクのパジャマ姿で、寝癖もついたまま。


 幸い、テレビに映っている桜の花の色と同じだったので、ギリギリ季節感が出ているとも解釈できる。

 いや、別にそんな解釈はいらないんだけど、話題を振られた僕は、取り込んだ洗濯物を畳む作業をしながら、叶実さんの話相手になっていた。


「桜、咲いたんですね」

「みたいだねぇ。今年は少し寒い日が続いてたけど、ちゃんと咲いたんだねぇ」


 ほわあん、とした雰囲気が僕たちを包み、場が和む。

 まるで、何気ない日常を切り取ったシーンだ。


 だけど、今の僕の心の中は、そんな空気とは違ってソワソワしている。

 それを解消するためにも、僕は思い切って叶実さんにある話題を振った。


「あの、叶実さん。明日はいよいよ……『ヴァンラキ』の発売ですね」

「ほふぅ……ほうだねぇ~」


 しかし、叶実さんは僕とは違って、全く緊張感のない返事をした。

 それでも、どうしても僕は気になってしまい、再度彼女に質問をする。


「叶実さんは、緊張とかしないんですか?」


 すると、彼女は口の中にあった団子をゴクンッと飲み込んで、答えた。


「……緊張? どうして?」


 彼女は本当に分からないといった風に、首を傾げる。


「いや。だって、結構話題になってるみたいですし……」

「あー、そうみたいだねぇ。霧子きりこちゃんや営業の人が頑張ってくれたおかげかな?」


 そういうと、彼女はまた、ずずずっ、と、僕が淹れた緑茶を口にして笑顔を浮かべる。


 一応、もしかしたら知らない人もいるかも知れないので説明しておくと、霧子ちゃんというのは僕の姉さんのことである。

 そして、姉さんはアテナ出版のオリポス文庫というところで、編集者をやっていて、その担当の作家こそ、いま僕の目の前でお茶と和菓子を堪能している夢羽叶実さんなのだ。


 夢羽ゆめは叶実かなみ

 ペンネームは、七色なないろ咲月さつき

 若干16歳にしてオリポス文庫新人賞の大賞を受賞。


 その後、彼女は受賞作品である『ヴァンパイア・ブラッド・キラー』通称『ヴァンラキ』と呼ばれる作品でデビューし、累計20万部を売り上げるヒット作を生み出すことになった。


 だが、2年前に発売された第10巻を最後に、最新刊が発売されることはなかった。


 そんな中、不思議な縁で『ヴァンラキ』のファンであった僕に目をつけた姉さんは、半年前から僕を七色咲月先生である叶実さんの家に送り込み、こうして共同生活を送ることになった経緯がある。


 そして、色々とあったものの、筆を置いていた叶実さんは、今年の初めに、必死の想いで『ヴァンラキ』の最終巻を書き終え、ついに明日、全国の書店に並ぶことになる。


 しかし、当の本人はというと、こうしてダラダラとテレビを見ながら、のんびりとしてしまっている。

 それを大作家の威厳と表現できればいいのかもしれないが、残念ながら今の叶実さんは、田舎で平和に暮らしているおばあちゃんみたいだった。


「大丈夫だよ」


 しかし、僕の不安を感じ取ったのか、優しく微笑みながら、彼女は告げる。


「だって、『ヴァンラキ』は津久志くんのお陰で、わたしが納得した最後を書けた作品だもん」

「叶実さん……」

「それに、霧子ちゃんや沢山の人たちが手伝ってくれて、わたしは『ヴァンラキ』を書き終えたんだよ」


 そして、彼女は自信に満ちた表情で、僕に言った。


「だから、待ってくれたファンのみんなにも、その気持ちは届くって信じてるよ」


 その言葉は、僕の不安を一蹴してしまうほどの、力強い言葉だった。


 みたらし団子が置かれたテーブルの上に、出版社から送られてきた『ヴァンラキ』の第11巻の見本誌がある。


 主人公であるスヴェンと、ヒロインのジャンヌが、互いに背を向けて描かれ、2人の顔には笑顔が浮かべられている。

 その暗示が意味するところは、読んでくれた読者にはきっと伝わるはずだ。


「……そうですね。僕もそう思います」


 叶実さんの言葉を聞いた僕は、もうこれ以上は何も聞かなかった。

 すると、叶実さんは何かを思いついたように、僕に話しかけてくる。


「そうだ! でもさ、折角なら発売記念に『オルレアン』のケーキでお祝いしようよ!」


『オルレアン』というのは、叶実さんも大好きな近所のケーキ屋さんのことだ。

 そこのケーキを、叶実さんは子供の頃から食べていたらしい。


「お父さんもね、わたしが本を出したときは買ってきてくれたんだ」


 そう嬉しそうに話してくれる叶実さんの姿に、僕はちょっとだけ安心する。

 少し前までは、お父さんのことを話題にしなかった彼女だけど、最近は彼女のほうから、積極的に話してくれるようになった。


 それが、僕は少しだけ彼女との距離が近づいて行っているように感じるのだ。


「分かりました。えっと、それじゃあ明日、学校の帰りに買ってきますね」

「……学校?」


 すると、叶実さんは首を傾げて、こう言った。


「なんで? 津久志くん、今は春休みだよね?」


 ああ、なるほど。

 確かに今は僕も春休み中なので、こうしてお昼時でも叶実さんと一緒にいられるのだが、それも今日までだったりする。


「学校、明日からなんです。言ってませんでしたっけ?」


 多分、伝えてはいたはずだけど、どうやら叶実さんは忘れてしまっていたらしい。

 まぁ、それも確か春休みに入ってすぐのことだったので、忘れていても仕方がないとは思ったのだが……。



「ええええええええっっ!?!?」



 ……なんか、思いのほかオーバーなリアクションが返ってきた。


「なんでなんで!? それじゃあ、わたし、また明日からお昼1人になっちゃうじゃん!?」


 しかし、僕が突っ込む間もなく、叶実さんは捲し立てる。

 いや、まぁ、そういうことになってしまうんですけど……。


「やだやだやだやだ! せっかく仕事もなくていっぱい遊べるのに、津久志くんがいないのやだー!」


 しかし、まるで子供のように駄々をこね始めた叶実さん。


 すると、次の瞬間、僕の予想を遥かに超える行動に出る。


「えいっ!?」

「うわあああっ!?」


 なんと、いきなり僕に突進してきたのである。


 結果、僕は真正面から叶実さんを受けてしまうことになり、まるで押し倒されてしまったかのような体勢になってしまう。


 そして、僕に跨るようになった彼女は、僕を見下ろしながら、超至近距離で告げる。



「じゃあ、今日一日は津久志くんといっぱい遊ぶんだからねっ!」



 そう言った彼女の笑顔は、子供のように無邪気で可愛らしい。


 これでは、精神的にも物理的にも、断れそうにない。

 年上のはずなのに、相変わらず甘えたがりの彼女の面倒をみるのは本当に大変だ。



 だけど、これがもう、僕にとっての日常になっている。


 僕と甘えたがりのぐうたら彼女との生活は、こうして今も続いていたのだった。


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