目撃者 ~強行犯捜査~

醍醐潤

第一回


 外に出ると、ムンっとした空気を感じた。体で感じる夏の蒸し暑さ。夜になっても気温が、あまり下がらないのはさすがに異常だと思う。


 舟橋歩夢ふなばし あゆみは自転車のカゴにノートやワークなどが入ったバックを入れると、ズボンのポケットからハンカチを取り出して汗を拭いた。

 午後十時。この日、都心では最高気温32度を叩き出していた。日中は雲一つない晴天だったので太陽の光が容赦なく街を照りつけていたのだ。このあまりの暑さに歩夢の通う中学校でも、「水分補給をこまめにしましょう」と、昼休みに教頭が放送で呼びかけるほどだ。


 実際、家に帰って見た夕方のニュースでは、既に何十人の人が熱中症で救急搬送されていた。この暑さは明日も続くと伝えられた。

「暑いの嫌だなぁ」

 スタンドを上げてサドルに跨ると自然に嘆息が漏れる。はっきり言って、歩夢は夏の暑さには弱い。小さい時は暑さでばてて熱を出して布団に寝かされていた記憶が毎年ある。今でもすぐにばてるところは変わっておらず、体育の時間にくらっとなることはざらだ。


 自転車に乗っていると本当は風をきって気持ち良いはずなのに、今歩夢が感じるのは、ムシムシした暑い空気。塾を出発してまだ二分しか経たないのに、もう汗が滲み出ている。


 塾から自宅までにかかる時間はおよそ十分だ。速く帰ってお風呂に入りたい――そんなことを思いながら、ペダルを漕ぐ。

 春には桜並木が綺麗な新川の川沿いを進んで行く。少し走ると櫓橋やぐらばしが見えてきた。時代劇で見かけそうなデザインの木造の橋で、歩夢の家はこの櫓橋を渡って、少ししたところにある。他にもいくつかの橋が新川に掛かっているが、櫓橋が一番の近道なのだ。


 車道の左端を走っていたが、櫓橋を渡るため歩道に入る。櫓橋には川の両側にスロープが取り付けられていて、車いすの人やベビーカーを押したお母さんはもちろん、足腰が弱くなってきた年配層の人でも使いやすいユニバーサルデザインが採用されているので橋の便利さはかなり高い。


 自転車はスロープに差し掛かる。スロープは押して歩かなければいけない。歩夢は自転車を一度降りた。前へ進もうとしたが、自然と足が止まる。顔を上げると橋の上に二人の人影があることに気が付いた。一人は灰色のスーツを着ている男の人。こっち側へ歩いて来る。もう一人は男の人の背後を歩く、フードを被った若い男。

(なんか、怪しい………)

 歩夢は嫌な予感がした。確信はないが何か恐ろしい出来事が起こる気がする。


 その時だった。突然、後ろの男が走った。かと思えば、前を歩いていた男の人を突然殴ったのだ。

「えっ、どうゆうこと?」

 スーツ姿の男性は殴られ前へ倒れた。少し離れているけど分かる。男性は動いていない。「死んだ――?」

 足が震える。事件の瞬間を目撃したことで怯えていた。

 思わず自転車のハンドルから手を離し、通学にも使う自転車は前に大きな音を立てて倒れてしまった。



 西船橋行の各駅停車は定刻通り、葛西駅に到着した。ホームの放送と同時に扉が開き、降車する人々が一斉に外へ流れた。


 早見照彦はやみてるひこは、その乗客たちと一緒に改札口へ向かって歩いていた。階段を下り、改札にICカードをタッチする。それから案内板に従い、南口ロータリーへ出た。ここで、彼は同僚の羽根田俊一はねだしゅんいちを待たせている。


「もう迎えに来てるはずなんだけどなぁ」

 腕時計で時刻を確認していると、

「早見さんっ」

 羽根田が白いセダンから降りて、こちらへ歩み寄って来ていた。「おはようございます」

「おはよう。わざわざ迎えに来てくれてありがとう」

 羽根田に対して礼を述べると、「また、いつでも仰ってくださいよ。じゃあ、行きましょう」同僚は彼に乗車を進めた。


 早見は車の助手席に乗り込んだ。羽根田も運転席に座る。セダンは羽根田の運転でパーキングブレーキとブレーキを外されゆっくり駅前ロータリーを発進した。


 環七通りを少し走った車は中葛西五丁目を左折しそのまま直進する。通りの両側には多くのマンションが立ち並んでいる。早見は前を向きながら、ハンドルを握る羽根田に尋ねた。「事件の概要は?」

「昨日の午後十時三十分頃、新川にかかる櫓橋で帰宅途中の会社員が何者かに頭を鈍器で殴られ倒れているのを発見されました。被害者は御茶ノ水にある会社で働く三十四歳。第一発見者は帰宅途中のサラリーマンで、殴られた当の本人は、通報を受けて駆け付けた救急車で病院に運ばれて、現在入院しています」


 前の信号が赤に変わり車は停まった。

「路上における殺人未遂または傷害事件か。ホシ、昨夜のうちに挙げられなかったんだ」

「はい。通報からすぐに検問や駅に警官を配置させたらしいんですけど、検挙出来なかったようです。午前一時にはキンパイ(緊急配備)も解かれましたし。だから、僕たち本庁に声が掛かったんです」


 二人は警視庁刑事部捜査第一課に所属する刑事だ。殺人や傷害事案の捜査にあたる殺人捜査係のうち、第一係が含まれる第二強行犯捜査に配属されている。四十三歳の早見は二〇〇一年に警視庁巡査を拝命していて、役職は主任、階級は警部補である。羽根田は三十五歳で、早見と同じく警部補だが係内での役職は主任ではなく係員だ。


 早見と羽根田が乗るセダンは、まもなく警視庁葛西警察署に到着した。降車し、正面玄関から署内へ入る。警察署総合案内のカウンターの前を通り過ぎ、少し薄暗い階段を上がる。二人は捜査本部が設置された会議室に入室した。


 捜査本部では第二強行犯捜査管理官の小野田正と捜査本部長に任命された捜査第一課理事官の戸田智とださとるが待っていた。

 早見の顔を見て、お疲れさん、小野田が言った。「概要は羽根田からある程度聞いたか?」

「はい。初動で挙げられなかったんですよね」

「その通りだ」戸田は少し苛立った様子だ。溜息が漏れてしまっている。「ホシがすぐに捕まっていれば、この件は所轄が片付けていたのに」

「管理官、被害者の容態は大丈夫なんですか?」

「朝五時頃に連絡があって意識を取り戻したと聞いた。幸い命に別状はなく、後遺症も残らないだろうって、医者が話していた」

 小野田が説明した。「被害者の男性は、殴られた際に気絶したようだ。全くそれだけで良かったよ」


「被害者は犯人の特徴については話していないんですか?」

 早見が訊いた。

「今話した通り、被害者が意識を取り戻したのは、ついさっきの出来事だ。葛西署の捜査員が病院に行って、それを確認している。三十分後に始める捜査会議で発表されるだろう」


「財布は盗られていなかったそうです」羽根田が言った。「カード類もそのままで、強盗ではない可能性が高いかと」

「じゃあ、通り魔による犯行と見るのが妥当でしょうね」

「その通りだ」

 頷いた戸田は、時刻がもうすぐ八時半であることに気付き、副本部長の葛西署署長に話かけるため立ち上がった。

 早見の所属する係と葛西署刑事組織犯罪対策課、初動捜査担当の機動捜査隊の捜査員が出席した第一回捜査会議では、主に初動捜査についての報告がなされた。


「周辺で聞き込みを行った結果、犯行の瞬間又は怪しい人物を目撃したという情報は残念ながら掴めませんでした。犯行の際にあまり大きな音がしなかったと思われることや被害者が殴られて失神し、悲鳴を発していないことが目撃情報の不足を招いたのではないでしょうか」

 手帳を見ながら機動捜査隊の巡査部長が報告がてら意見を述べた。各捜査員に三枚ずつ配られたプリントの三枚目、現場の航空写真が載せられたページを開くと、現場の周りには住宅街が広がっていることが分かる。


 住宅街での聞き込みで、有力な情報が掴みづらいことを考えると、今回の事件はかなり難しい事件になりそうだ。早見は自然に眉間に皺を作っていた。通り魔や路上強盗のような犯罪捜査では、聞き込みなどの地取り捜査が重要視される。実際に早見が渋谷署強行犯係時代に担当した連続路上強盗事件では、不審者の特徴を明快に覚えていた近隣住民が情報を提供してくれたおかげで、路上強盗犯の逮捕に繋がった。


「この建物は何なんですか」

 本部長の戸田が質問した。航空写真の左側に大きな建物が写っている。戸田はそれを指摘していた。

「ポンプ所です」

 発言したのは、葛西署刑事組織犯罪対策課強行犯係の係長だった。「汚水を水再生センターへ送水したり、雨水を川や海などの共同水域に放流するための施設です」

「そこに防犯カメラがあるかもしれない。今日中にポンプ所へ行って確認する必要がありますね」


 続いて早見が気になっていた被害者の事情聴取の結果についての発表だった。

 葛西署捜査員が起立し、

「被害者の口からはホシの情報は掴めませんでした」

 と、言った。「先ほどの報告にある通り、ガイシャは殴られてすぐに気絶したことや、医師の診断では記憶喪失の疑いがあるそうです」


 期待した答えは語られなかった。朝から会議室に不穏な空気が流れている。だが、今は全力で目撃者探しと防犯カメラ映像の回収を行わなければいけない。 

「市民が安心して過ごせる日を取り戻すために早期解決を実現させましょう」

 第一回捜査会議が終了したのは、一時間後の九時三十分を少し過ぎた時刻だった。

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