第千二百三十一話・春の変化
Side:久遠一馬
尾張では田んぼや畑の準備が始まっている。乾田の田んぼは二毛作の麦が育っているのでそのままだけど、湿田では早植えの準備をしている。
織田家では直播きではなく苗を育てることを推奨しているので、織田領では育苗から始める必要があるんだ。
農具もこの時代によくある、木板の先端に申し訳程度の鉄の刃を使ったものではなく、元の世界にあるようなふんだんに鉄を使った農具が普及している。
田畑の区画整理は調整と労働力の問題からまだそこまで普及していないものの、春の景色はだいぶ様変わりしたなと感じる。
知多半島では芋の生産も慣れてきている。連作障害を起こさないために芋を植えた翌年は大豆を植えて、その翌年には畑を休ませることもしている。大豆は味噌や醤油の原料として尾張でも消費量が増えているので、知多半島は産地として名が知れ始めた。
人口もオレたちが来る前の数倍になっているほどで、漁業と畑と植林で多くの人が暮らしていけている。水路工事も順調だ。ほかには雨水を貯めるため池を作ったりといろいろ工夫しているからね。
農業改革はようやく芽が出て定着してきたかなというところか。ホッとしたというのが本音かもしれない。
「そうですか。うーん……」
尾張と美濃と西三河はほぼ問題がない。飛騨と東三河は新領地ということでいろいろと大変だけど、一番の懸念はやはり北伊勢だった。
千種領では先日の謀叛に関連して食料不足が顕著になっているとのことで、信光さんが援軍として派兵する時に持っていった兵糧を六角に売ったらしい。代金の話はしていないようだけど、そのうち支払いをしてくれるだろう。
無量寿院の末寺は相変わらずどこも飢えているし、種籾を無量寿院が高利で貸し付ける形で農作業を進めてようとしているようだ。。
当然だが、寺領のある辺りは治安が悪化している。無量寿院と織田は互いに関与しない。この約束が末端まで浸透していない。また飢えた者に法や約束のことを言ってもあまり意味がない。奪わないと飢えて死ぬだけだから。
寺領からは無量寿院が送った領民が逃げてくることも多い。さらに末寺に入っているのは北伊勢の武士の残党がほとんどなので、領民に逃げられたところでは織田の関所に人を返せと騒ぎ立てることもある。
あくどいところだと口では出家したからと称して関所を無税で通り、近隣の織田側の村などに行くと寄進をしろと半ば強奪するように脅迫する事案すら出ている。
無論、村の側もそんな連中に素直に従うはずもない。各村にはそこに根付いた寺があったりするし、無量寿院の末寺が世話をしていた村にはこちらから別の宗派のお坊さんを派遣したりしている。
無量寿院と織田がすでに縁切りしたことは織田領の各村でも知っているので、下手に寄進すると織田に逆らうことになると考えて拒否するところだってある。
警備兵が駆け付けると当然追い出しているけどね。いたちごっこの状態だ。
「無量寿院では下々の者のことなど関わりませぬからの」
沢彦宗恩和尚とこの件を相談しているけど、デリケートな問題故に解決が難しく一緒に頭を悩ませる。
逆らえば仏罰が当たるぞと先日まで武士だった連中が騒ぐんだ。北伊勢では不満も高まっている。ちょっと頭の回る人なら、偽者の坊主だと分かる。
そんな連中に大切な食糧を渡したくないし、兵を連れて戦を仕掛けてくるなら返り討ちにしてやるのがこの時代の農民だ。
「真宗の者たちは怒っていますか?」
「左様でございますな。今のところ拙僧や寺社奉行で抑えておりまするが」
この件、なにが困るって、尾張高田派がもの凄く怒っていることだ。高田派の世評が地に落ちると言っても過言ではないからなぁ。
織田領では領内の移動に税が掛からないので行商人の行き来が活発だし、他宗派のお坊さんたちがそんな無量寿院の無法っぷりを広めて、自分のところの布教に利用していることもある。
武力や強引な勧誘はしないように命じているけど、説法と布教は禁止していない。他宗派の欠点を利用するのは当然だよね。
「現状は長く保ちませんね」
願証寺が織田領内の末寺の寺領を放棄したことも影響している。尾張高田派は慌てて寺領をどうするか相談を始めたらしい。
無量寿院は六角と北畠と共に織田打倒をという大雑把な方針で、内部がまとまることもなく各々が好き勝手に行動しているし。
この時代の寺社の悪いところが凝縮しつつある状況だと思える。歴史が変わったことで、本来ならば願証寺に集まる反織田がそっちに行っただけかもしれないけど。
でも無量寿院だって銭が無限にあるわけじゃない。いつまで保つか前途多難だね。
Side:セレス
「これは氷雨の方様、御見回り、真に有り難く、
警備兵を連れて清洲の見回りに出ると、あちこちから声を掛けられます。人の出入りが激しい清洲ですが、だからこそ昔から住む人たちのネットワークや繋がりは治安維持にも役立てています。
「変わりはないですか?」
「はあ、時折やってくる上方の商人が揉め事を起こす以外は……」
「すぐに奉行所に知らせてください」
「畏まりましてございます」
商家などを回り、流民や旅人に商人のことを聞きますが、やはり厄介なのは畿内から来る商人ですか。
粗悪な銭での商いは尾張では嫌われています。機会を見て織田家で回収して良銭にしていますが、商家とするとそもそも粗悪な銭など欲しくないのが本音です。
厄介なことは畿内や西国から来る商人には、尾張を見下している者が少なくないことでしょうか。長年の価値観はそう簡単には変わりません。
田舎者が一時の勢いで増長している。西の者たちからするとそんな思いが根底にあるのでしょう。
今の尾張の商人だと畿内との商いを止めてもあまり影響はないでしょう。おかげで上方商人には売らないという商人もいるほど。
ウチにも昔はそのような商人がたくさん来ましたね。『○○様が金色酒を所望しておる。すぐに融通いたせ』『断るとためにならぬぞ』などと脅し文句など可愛いものでした。
司令が官位を得たことや、八郎殿や湊屋殿が毅然とした態度ですべて退けたことで、近頃はそのような者はほとんど来なくなりましたが。
司令の元の世界ですら、地域による対立や意識の違いは根深く残っていたと聞いたことがあります。この時代では他国など外国そのもの。一部の理解ある商人が穏便にこちらのルールに従って商いをしているので、今のところ問題は大きくなっていませんが。
力関係が急に変わった。その影響は今後も続くでしょうね。
尾張では確実に畿内に対する認識が変わりつつあります。少し気を付けたほうがいいかもしれません。
「お方様! これを是非食ってくだせえ!」
「ふむ、美味しいですよ。味噌がいいですね」
途中、露店で熱田焼きを売っている男に頼まれて味見をします。これはクレープというより春巻きのような形をしていますね。中には魚の白身と山菜を味噌で炒めたものが入っています。
私には少し味が濃いですが、肉体労働をしつつ握り飯と一緒に食べるもののようなのでこんなものでしょう。
「油は安くはないでしょう? この値でやっていけるのですか?」
表面を僅かな油で焼いているので、少し香ばしい感じもあり美味しいです。ちらりと見ると食用の油がある。ほぼ劣化もしていない油のようです。その割に値段が安いことに少し驚かされます。
「ああ、揚げ油はあまり日持ちしないようでしてね。問屋で売れ残ったものを安く売ってくれるのでございます」
なるほど。新鮮な油は武士や僧侶が買うのでしょう。数日して余ったら町人に安くして売っていると。油問屋が食用油を取り扱い始めたと聞いた時には不安でしたが、まっとうな商売をしているようでホッとします。
少しずつですがモラルや常識も変化しつつあります。そのことがなにより嬉しいですね。
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