第千百七十八話・歴史の齟齬

Side:九鬼定隆


「もう大丈夫。ただし来月にまた来て」


 薬師の方様の診察が終わると安堵した。


 織田に臣従し変わりゆく日々に追われておる最中、突如具合が悪くなり、馴染みの薬師や祈祷を頼んだが一向によくならず、噂に聞く那古野の病院に駆け込んだのが先月のことであった。


 もう少し遅ければ命すら危うかった。平然とそう言われた時には肝が冷えた。わしはまだ死ぬわけにはいかぬ。戦で死ぬなら本望なれど、九鬼家が新しい主の下で生き抜くには今しばらくの時がいるのだ。


「ありがとうございまする」


 病院は診察を待つ多くの者で溢れている。近頃では、わしのように他国から来る者も珍しくないとか。貧しき者ですら分け隔てなく診てやるとはさすがは久遠家よな。


「殿、お体はいかがでございまするか?」


「大事ない。さあ、戻るか」


 病院を出て家臣と共に蟹江に戻ることにする。まさか志摩を離れて尾張で暮らすことになるとはな。


 志摩の城には隠居した父上が今もおられるが、わしは織田水軍の将として働くために蟹江に屋敷を構えておる。志摩十三地頭と呼ばれた我らも今は織田水軍の一員となり忙しい日々を過ごしているのだ。


 近頃では近隣の水軍との小競り合いすらなくなり、紀伊のほうから来る船の案内や賊の討伐などやることは山ほどある。


 久遠船の操船も覚えた。尾張から伊勢へ荷や人を運ぶことも多い。


 武士としての生き方は変わったが、織田に臣従してから暮らしは驚くほど楽になったな。まさかこれほど楽になるとは思わなんだ。


 無論、所領を召し上げられたことは今でも思うところはあるが、これも世の習いということであろう。戦って守りきれぬ以上は従うしかない。


 近隣で織田に臣従しておらぬのは、大湊の水軍と志摩半島の南の者らだ。明らかに暮らしが違うことから向こうも大変であろう。


 奴らには悪いが意地を張ったところで先が見えぬ争いは御免だ。




side:久遠一馬


 長尾景虎が京の都を離れて帰路に就いている。


 史実では足利義藤と謁見して意気投合し、後奈良天皇から御剣と天盃を拝領して敵を討伐せよとの勅命もいただいたはずの上洛で、景虎の今後に大きく影響するはずだったんだけど。


 忍び衆とシルバーンからの報告では義藤さんとの謁見がないのは当然として、京の都でも史実とは異なる扱いだったようだ。


 そもそも彼は史実と違い、昨年に与えられるはずだった従五位下の弾正少弼に叙任されていない。これには史実でも異論があった気もするが、代わりに彼に与えられた官位は越後守になっている。


 正式な手続きを踏んで越後守護代である長尾家を相続したことは認めたことになるのだと思うが、いかんせん彼の注目度は低い。


 これは義藤さんとの謁見がなかった影響も大きい。史実では足利義輝が後に上杉家を継いだ長尾景虎に期待したらしいが、この世界では可もなく不可もなくという評価になりそうだ。


 現状の義藤さん自身は長尾家よりも北条家を評価している。これは義藤さんの生き方が史実とは違うことが原因でオレたちの影響だろう。


 主上との謁見は実現したらしいけど、御剣も天盃も拝領していないし勅命もない。家柄相応の扱いは受けたようだけど、言い換えればそれで終わりだ。


 この変化がどう今後に影響するか、注視する必要があるな。


「長尾殿、清洲城に挨拶に来るかな?」


「来てもおかしくありませんが……、寡黙な方のようで私も今一つ分かりません」


 気になるんだよね。顔を見られるかなとエルに聞いてみるけど、なんとも言えないか。


 史実において戦国最強とも言われた人だ。興味はあるし警戒もしているのでシルバーンの中央司令室でも観察対象にしているが、ほんと口数が少なくて誰にも本音を明かさない。オーバーテクノロジーで情報収集をしても、何を考えているのか分からないというほどだ。


 もちろん推測くらいなら出来る。でも推測で判断するのは危険なんだ。特に景虎クラスにもなるとね。


「ならば、こちらから招けばよろしいかと」


 オレたちの会話を聞いていた資清さんが少し考えて進言してくれた。織田家においても長尾景虎の注目度は低いこともあって招く予定はない。ただ、資清さんはオレたちが彼を気にしていることを知っているから招くことを進言してくれたのだろう。


「妙案だね。八郎殿」


 ジュリアが資清さんの進言に笑みを浮かべている。


「殿がお気になさるのならば、会うてみるべきだと思うたまでにございまする。特におかしなことではございませぬ」


「確かに長尾殿が招きに応じてくれるのなら、招いて会ってみるのが早道だね」


 エルとジュリアと顔を見合わせてその意見に同意する。


 何度も言っているが、この時代で他国のトップと会うことは稀だ。領内や城を見られたくないのが普通で、招かれる側も暗殺の懸念を持つ。


 まあ、景虎が会ってくれるかどうかは分からない。それに会っても寡黙だと儀礼的な挨拶だけで終わる可能性が高い。とはいえせっかくの機会だ、こちらから一歩動くのもいいかもしれない。




Side:長尾家家臣


 帰りも尾張を見聞して戻ることにして東海道を東に進み蟹江まで来た。すでに夕暮れの頃だ。今日はここで宿を取ることにした。


 宿にて一息つくと旅の疲れや不満からか、面白うないと愚痴をこぼす者が出始める。遥々越後から上洛したというのに、いずこに行っても尾張の話ばかりであったのだ。


 数人の不満に皆が続けざまに不満を口にし始めるも、殿が不快そうな顔をなされると黙るしかない。


 殿は相も変わらずだ。我らに御心を打ち明けてくだされぬ。察することすら出来ず、皆が困った顔をしておることはご理解されておられると思うが……。


 無論、戦と政においては相応に命を下されるものの、己の思いを口にされることはない。戦にも強く、越後をまとめられる御方は他にはおらぬというのに。


 殿の御心はいったいいずこにあるのであろうか?


「殿、いかがなされましたか?」


 夕餉としておると殿の箸が止まった。お好きな金色酒を飲み、幾分ご機嫌がいいように思えただけに皆の顔が強張る。


「この梅がいずこで売っておるか聞いて参れ」


「はっ」


 皆の顔に安堵が見える。夕食に出された梅干しがお気に召しただけか。


「確かに飯は尾張が一番美味いの。都の料理は味が薄い。東国は塩辛いばかりじゃが、尾張だけはまったく別物じゃ」


 そう老臣の言う通り、飯は尾張が一番美味い。殿の御身分を思えば当然ながら格別なものを用意させたとも思えるが、それはいずこでも同じこと。


 都の公家衆が、尾張より伝えられた鰻の蒲焼きを褒めておったのも分かるというものだ。案内役の御師が是非というので皆で食うてみたが、あれが下魚の鰻かと驚いたものだ。


 そのまま我らは酒を飲んでおったが、夜更けになろうというのに清洲より使いが参った。よければ一席設けたいという招きだ。


「殿、いかがなさいまするか?」


「良かろう。挨拶に出向く」


 斯波や織田とは特に争うべきこともない故、害されることなどあるまい。


 仏の弾正忠は信義に厚い男だと聞く。さらに斯波武衛家は三管領の家柄。こちらから挨拶に出向くべきかは迷うところだが、誘いを受けた以上は断る道理はなかろう。


 ただ、誘いを受けた時、ほんのわずかだが殿の口元に笑みを浮かべたように見えた。他の者は気付いておらぬようであったがな。


 あれはいかなる笑みだ? 


 分からぬ。殿もこの尾張という国もよう分からぬことが多すぎるわ。




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