第千百四十五話・寺社の行く末
Side:北畠具教
日も暮れ、父上とふたりで少し酒を酌み交わす。此度は見事に立ち回られたが、父上はさほど喜ぶ様子もなく淡々とされておられる。
「さて、無量寿院が荒れる前に戦の支度はしておかねばならぬな。織田と六角も兵を出すにしても、中伊勢の戦ならばこちらも相応に出さねばならぬ」
「やはり戦になりまするか」
父上の存念はいずこにあるのか。時折、分からぬ時がある。あるがままに世の流れを見て受け入れておると言うべきであろうか?
「坊主どもが思うた以上に愚かだった故にな。あ奴らは武士が仏と称される意味を理解しておらぬわ」
仏か。そう呼ばれることを内匠頭殿は必ずしも喜んではおらぬ。本音までは知らぬが困っておると言うておる。ところが、その名はすでに織田の治める地を越えて広まっておるのだ。
坊主どもが面白うないのは確かか。
「内匠頭が仏に相応しい男か否かという話ではないのだ。武士が仏と信じられるほど坊主どもが堕落し、民の信を失うておるということよ。民とて決して愚かではないからの。いずれの者が仏の教えに近いか自ずと分かるのであろう」
「それはそうでございましょうが……」
「この件は無量寿院のみの行く末で終わるとは思えぬ。わしが内匠頭や内匠助ならば、このまま日ノ本すべての寺社を喰ろうてしまう策を考えるぞ。織田は天下をまとめるつもりなのであろう?」
父上の言葉を聞いて背筋にすっと冷たいものが流れる。確かに一馬ならば、そう考えてもおかしゅうない。されど……。
「それが良いのか悪いのか。わしには分からぬがな。少なくとも無量寿院如きに御せる相手ではないのは確かであろう」
父上は他人事のようにそう口にすると、静かに酒を飲んで障子を開けて空を見上げた。
世は変わりつつある。それは間違いない。一馬らが変えておるとも言えるが、皆が変わることを望んでおるのも確かであろう。
とはいえ、尾張が勅願寺として思うがままに振る舞っておった無量寿院をすでに超えておるとはな。改めて考えると信じられぬところがある。
「父上……」
「呆けた顔をするな。此度は手を貸したが、いつまでもわしが助けになってやれるわけではないのだぞ。もっと力をつけねばな」
「はっ、精進いたしまする」
父上は容易く物事を運んでいるように見えても、実は難しきことばかりだ。わしは父上にも一馬にも遠く及ばぬ。
まことに精進せねばなるまいな。北畠の家のために。
Side:無量寿院の高僧
「やはりお公家様か」
尭慧様が唐突に還俗をされたと、供をした者が多気御所から慌てて戻ってきた。悲しむ者、怒る者、今後を憂う者など様々か。とはいえ、大人しゅうしておられぬ神輿など不要じゃの。
「いかがする?」
「構うまい。それよりも新たに住持を決めねば。真智だけは容認出来ぬ」
そもそも、ここは我らが寺だ。後からきた余所者が、ああだこうだと余計な口を挟むことからしておこがましい。
「尭慧様の妻子を寄越せと北畠が騒いでおるが?」
「妻子など叩き出してしまえ!」
「よいのか? 織田と北畠が謀れば我らが再び窮地に陥るぞ。織田を甘く見ぬほうがよいと思うが……」
次の住持を狙う者は、すでにそれを見越して考えを口にしておるわ。各々で近しい者をまとめ、仏道を重んじる者も世の流れを重んじる者もすべて従えねばならぬ。容易いことではないからの。
織田は恐ろしいが、あそこは仏の名を好んでおるように思える。自ら寺を攻めるような愚は犯すまい。無論、気に入らぬことに変わりはないが、兵を挙げてくる大義名分を与えねばいいだけのことよ。
「まあまあ、まずは祝杯でもあげようではないか」
「そうじゃの。憎き織田からようやく末寺と寺領を取り戻したのだ」
「南蛮人如きが。大人しゅう酒だけ造っておればよいのだ」
ひとりの僧が金色酒を飲み苛立ちを露わとした。すべての元凶は氏素性も定かではない卑しき南蛮人なのだ。さらに下賤な商人風情を猶子として分不相応に厚遇するなどあってはならぬことよ。
本来であれば、仏に仕える我らに頭を下げて品物を寄進するが筋であろうに。身勝手な商いをして伊勢を騒がせた久遠め。奴だけは決して許さぬ。
今に見ておれ。伊勢も尾張も正しき道に戻してくれるわ。
Side:久遠一馬
「やっぱり思った通りか」
早くも無量寿院の末寺とその寺領から人が続々と流出している。田んぼを持たない小作人は賦役をやれないと冬を越すのすら難しい人もいるんだ。当然と言えば当然だけどね。
この時代の領民は家財道具は鍋や椀ぐらいで着物も一枚しかないとか当たり前だから、着の身着のままで背負い籠に収まる程度の僅かな荷物で移住するから決断したら本当に早いんだよね。
「寺社奉行も大変なようでございます」
資清さんの報告に苦笑いが出てしまう。寺社奉行は発足して日が浅いのでウチも助けている。今回の場合だと末寺から相談や苦情が相次いでいるそうだ。中には話が違うと怒鳴り込んできたお坊さんもいたとか。
「寺を新しく建てるのは難しいけど、飢えずに暮らしていくくらいなら困らないようにするしかないね」
正直、寺はこれ以上要らない。元の世界の感覚からすると現状でも多すぎるんだ。
仏道に励みたいお坊さんは、現在ある寺で受け入れてもらうように働きかける必要がある。ただお坊さんたちは読み書き出来る教養があるので、他の仕事でもいいなら文官とか教師でもいい。下級文官はいくらいてもいいんだよね。
末端の寺のお坊さんだと領民と向き合って生きているから、下級文官に向いている人が多い。無論、いい人から腐れ坊主までいろいろといると思うけどね。
領民は簡単だ。三河の矢作川の改修に人員を投入すればいい。知多半島の水路も人手不足だからそっちも進捗が遅いんだよね。一ヵ所に集めないで分けてもいいかもしれない。
もっともこの時代の人の感覚だと、脅威のスピードで発展しているように見えるらしいけど。オレたちからすると、もう少し効率的にやれる気がしている。
それと、早くも無量寿院から逃げ出した人がいるらしい。こちらとの交渉担当だった坊主が、謝罪と修行の旅に出るからと交渉に関わった政秀さんたちに挨拶にきたみたい。
交渉に関わっていた信安さんはやっと片付いたとホッとしている様子だったけど、政秀さんは少し悲しんでいた。信心深くて寺社を大切にする人だからね。
とはいえ、いろいろとあったが尭慧さんの家族も穏健派により速やかに北畠側の迎えに渡されて、一件落着となった。
「品物の値に関してはあと数日かかります。湊屋殿が関係各位と相談しておりますので」
今後のことをエルと相談するが、無量寿院との商いの取り引き価格は現在の状況を精査して決める。関係する商人たちからも意見を聞く必要があるからね。湊屋さんに素案を任せた。
「ジュリア、大丈夫か?」
そのまま仕事をしていると、ジュリアが木刀を持って庭を歩いている姿が見えた。もうお腹が大きいんだけどなぁ。
「ああ、大丈夫だよ。ちょっとは体を動かさないとね」
侍女さんたちもハラハラした様子で見ているけど、ケティたちの助言を受けてのようだ。本当に少し体を動かす程度だね。
ジュリアを見て思い出したが、塚原さんから尾張で屋敷を構えたいと相談された。これは菊丸さんもまだ知らないことだけど、塚原さんが菊丸さんを外に連れ出したことに師匠として責任を感じているみたいなんだ。
尾張からだと観音寺城までは急げば二日ほどで行けるし、鹿島も船を使えば比較的早く戻れるからね。
こちらとしては、ウチの屋敷にいてくれて構わないとは言ってある。ウチの屋敷だと空き部屋は多いし、人の出入りも多いので目立たないんだよね。それに菊丸さんの身分を考えると相応の防備が必要なこともあるからね。
遠慮しなくていいんだけどね。
ただ、信秀さんは、長居するなら屋敷があるほうがいいからと塚原さんに屋敷を与えることにしたみたいだ。
◆◆
天文二十二年、九月。浄土真宗高田派総本山を自認していた一身田無量寿院と織田家は、北伊勢にある同派の末寺と寺領の返還について誓紙を交わしている。
北伊勢では前年にあった一揆の鎮圧により織田が領地を得ていたが、困窮する寺と寺領の領民支援の対価として領地整理を行い、尾張や美濃と同様に寺社を織田家の下に組み込む政策を行なっていた。
これに無量寿院が反発したことから緊張が高まった。
無量寿院は勅願寺としての綸旨を朝廷より受けている誇りもあり、武士如きに従えるかという反発が大きかったことと、伊勢は本拠地であり諸国の末寺とは別物であると考えたことが理由とされる。
交渉は長く難航したが、結果として織田が北伊勢の末寺と寺領を返還している。
ただし、末寺の僧や寺領の領民については織田家の下での暮らしを望む者は移住を認めるという形になっており、寺領の領民ばかりか末寺の僧も多くが寺を捨てて移住したという記録が残っている。
さらに織田と無量寿院の双方に対し、相手に配慮を求めないという条文もあった。
無量寿院では双方に対し絶縁で収めよということだと解釈したとあるが、この配慮には地域一帯の物流をコントロールしていた織田の配慮が消えることを想定していたものになる。
この一件を仲裁したのは表向きとして公卿である飛鳥井雅教と北畠晴具の二人であり、仲裁内容は一見すると無量寿院寄りの仲裁のように思える。それもあって無量寿院では、対織田を睨んで北畠を自分たちの味方だと誤解するきっかけとなった。
ただし、仲裁内容は織田と北畠で相談して決めたものだと『織田統一記』や北畠家伝である『北畠記』にはある。
北畠晴具は表向きは中立としつつも、無量寿院寄りの姿勢を示したふりをしながら裏では織田と繋がっていたことになる。
関係する資料からも晴具が織田と通じていたのは明らかであり、後に三国同盟の庇護者として称えられる片鱗をすでに見せていた。
なお同派の尾張・美濃・三河の寺に関しては、この一件より以前から無量寿院と疎遠になっていたことと、他国のことに口を出すなと一致結束したことで仲裁の議題にすら上がっていない。
織田領内からも無量寿院への上納を禁じていなかったことで問題にならなかったと思われる。
尾張・美濃・三河の同派末寺では織田の下で改革が進んでいた寺も多く、無量寿院に対抗するために一致結束したのだと一部の寺では伝承が残っている。
無量寿院ではこの一件の責任を取って住持の尭慧が還俗しており、公家である飛鳥井家との縁が切れている。これは無量寿院の動きに不満を持った飛鳥井雅教の意思によるものと記録が残っていて、無量寿院が孤立する原因となった。
また、尭慧は十二代将軍足利義晴の猶子だったこともあり、無量寿院が足利家とも縁が切れる結果となったことも大きい。
後世の歴史家は、本願寺派三河本證寺と高田派伊勢無量寿院の一件が、織田が寺社の問題に本格的に取り組むきっかけになったのではないかと推測している者もいる。
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