第千百四十四話・仲裁
Side:とある無量寿院の僧
唖然とした。尾張を知らぬ高僧らが血迷ったとしか思えぬことを決めたからだ。
「だから言うたであろうに。上の者らは分かっておらぬのだ」
長きに亘り織田と根気強く話をしておったことをぶち壊しおって。我らのように尾張に出向き、かの国を見ておる者は織田が決して侮れる相手でないことは重々承知しておるのだ。
高僧らには幾度となく説いた。美濃の守護家は追放され、本證寺は一夜で滅んだ。商人でさえ絶縁されると暮らしが成り立たぬと、桑名は主立った商人が同じ桑名の者らによって捕らわれて処刑されたとな。
「尭慧様もご理解されておられぬな。飛鳥井卿はさすがに存じておるようじゃが」
飛鳥井卿か。あの御仁は世の流れをよく理解しておられるが、それでも飛鳥井卿を呼んだのは失態であったな。あれ以降、織田が話に応じなくなってしもうた。
織田の者からは新しき政をしておること、末寺と寺領の民が食うていくには相応の手助けをせねばならぬと教えられておったのだ。
無量寿院ではそれは無理であろうと諭され、末寺と寺領を戻すならば相応に動かねばならぬと言われておったのだぞ。
食うていけぬ末寺を返されていかがするのだ。食えなくなった末寺と民が大人しく従うとでも思うておるのか? 末寺から一揆でも起こされると無量寿院の面目が立たぬであろうと織田の者が案じておったというのに。
織田からは数年大人しくして頭を下げてくれれば、相応に遇するとまで言うてくれておった。我らの行く先まで考えてくれた平手殿らには、恩を仇で返したことを謝らねばなるまいな。
「いかがするかだ。尭慧様はもう多気御所に向かわれたのだぞ」
「話がまとまり落ち着く前に御寺を出るしかあるまい。御寺がこのまま安泰とは思えぬ」
いずこに行くべきであろうな。名目は諸国を巡る修行の旅に出るということにしておくか。このまま御寺に残れば確実に我らが責めを負わされるゆえな。
懇意であった安濃津の商人ですら見向きもしなくなるやもしれぬのだ。織田は敵となった者との商いをする商人を許さぬ。金色酒や砂糖は無論のこと、塩や紙、絹や木綿の織物まで織田の品を買うておるのだぞ。
今後は畿内から買わねばなるまい。硝石など織田が大湊に売る値の数十倍でも買えぬ時があるということを、何故、上の者らは分からぬのだ。
まったく……。年寄りというものは己の考えがすべてで世の流れの移り変わりというものを理解しておらぬ。
そもそも伊勢に本山をというのが無理であったのだ。我らは巻き込まれる前に逃げねばならぬ。
Side:織田信安
多気御所か。霧山城もあり街道沿いで籠城するには良い地だと思うが、ちと海から遠すぎるの。
武官と兵二百を連れて大湊から多気御所に来たが、久々に他国に来ると昔を思い出す。
己の身は己で守らねばならぬのは当たり前のことだ。ところが尾張では、すでに少数の警護の者で十分だ。清洲では童子がひとりで歩いておれば、警備兵が迷子として家まで送り届ける。他国ならば攫われてしまうというのにの。
もっとも、あちらこちらに乞食や亡骸が捨てられておらぬ分だけ、伊勢は畿内よりは悪うないと思うが。
「伊勢守殿、よう参られたの」
「この度はお世話になりまする」
北畠の大御所様はご機嫌なようだ。労せず織田と無量寿院に貸しをつくったのだ。当然であろうな。
「隠居のわしなどが口を挟むまでもないとも思うたが、飛鳥井卿を見捨てたと思われると互い困るからの。斯波殿や織田殿に余計なことをすると思われておらぬかと案じておったわ」
「まさか余計なことなどと思うはずなどございませぬ。さすがは大御所様であらせられると皆で感心しておりました。無量寿院とはこれ以上話しても無駄でございます故」
織田も変わった。他家が名を売り、実を得ようというのに、むしろ面倒事が減ったと喜んでおるのだからな。
「そうか、それは重畳重畳」
「此度の謝礼は後日させていただきますが、なにか望むものがありますればご用意いたしまする」
大御所殿は謝礼のことには言及せなんだか。久遠殿が北畠は内情が苦しいと言うておったな。国力と言うたか。とはいえ北畠もあまり欲張れぬであろうしの。あとで家臣を通して望みを伝えてくるというところか。
歓迎の宴を開いていただいた翌日、さっそく無量寿院との交渉の席に着くことになった。
「では、双方これでよいな?」
誓紙を交わす故、書面に仲裁の内容を残すこととなる。
織田は年内に北伊勢の末寺と寺領を返還する。その対価を求めないこと。
無量寿院は寺と寺領の土地以外は返還を求めないこと。
双方共にこの件が終わったら争わず、配慮など求めぬこと。
さすがは大御所殿だ。南伊勢にて長年治めてきただけはある。無量寿院の奴らに返還するのを寺と寺領の土地だけと認めさせたわ。焼けた寺を再建しておるのは織田だ。持ち出せるものは持ち出してもよいという織田への配慮があるのであろう。
さらに、この一件が終われば配慮も求めぬこと。これは無量寿院が織田に配慮をしているつもりであることで、それを要らぬと定めたのだが。実のところ、こちらが配慮しなくてもよいとされた。
事前に話は通しておったと聞くが、ここまでこちらの望みを飲ませるとは。
「異論はございませぬ」
「こちらも異論はございませぬ」
尭慧殿が神宮の誓紙に署名してわしも署名する。これで終わりだ。
「この度は斯波殿や兄上ばかりか、北畠卿にもご迷惑をおかけしました。すべては拙僧の徳が足りず至らぬせいでございます。此度のけじめとして拙僧はその責めを負い、この場にて無量寿院の住持を退き還俗することといたします」
終わったと安堵したのも束の間、尭慧殿が責めを負うと申し出ると無量寿院の者らがあ然として騒ぎ出した。知らぬのは奴らだけか。
「尭慧様、お待ちを! そのような重大なことをこの場で唐突におっしゃられても……」
「吾が認めた。飛鳥井家はこれにて無量寿院に義理を果たしたことじゃしの。住持としてなんの役にも立てなんだ不甲斐ない弟を引き取ることにする」
「我らはそのようなことなど思うてはおらず……」
なんとしても止めようとする坊主どもであるが、飛鳥井卿が怒りを抑えるように言い放つといかんともすることが出来なくなる。
「尭慧殿、確かそなたには妻子がおったの。わしが仲裁した結果ゆえ、当家が迎えを出そう。まさか無量寿院もわしと飛鳥井卿の仲裁を潰すことなどせぬであろうしの」
止めは大御所殿か。すべては仲裁の一環として飛鳥井家と無量寿院の繋がりを断つおつもりだ。本当にお人が悪い。味方のふりをして無量寿院に恩を売りつつ、実は飛鳥井家と我らに恩を売るおつもりとはな。
もっとも義兄上は、このくらいの謀をする御方のほうが好みのようだがな。
「お待ちくだされ……」
「断っておくが、よもや北畠の面目を潰すというならば戦となるぞ。わしは内匠頭殿と違い、仏ではないからの。さらに織田とは戦の際には水軍を出すという約定がある。それでも構わぬというならば好きにいたすがよい」
大御所殿の脅しを聞いて、顔色が真っ青になる者や大御所殿を睨む者までおる。おそらくこの場におるのは無量寿院の高僧の意を受けた者らだ。まとまっておらぬというのはまことであったらしいな。
大御所殿がこれで話は終わりだと言うと、無量寿院の者らが下がっていく。さすがにこれ以上は食い下がれぬと諦めたか。
「北畠卿、改めて礼を言わせてもらう」
この場はなんとか収まったことで安堵するが、飛鳥井卿もまたようやく気が休まると言いたげな様子で大御所様と話し始めた。改めて公家という者らは侮ることが出来ぬのだとつくづく思い知らされるな。
「なんの、わしは大したことなどしてはおらぬ。すべては織田が用意した策を使うたまでよ」
「ああ、そうであったな。織田殿にも改めて礼を申す。されど弟の妻子まで助けられたのじゃ。感謝しかないわ」
大御所様が酒を運ばせて、事が上手く運んだことを祝って皆で祝杯を挙げることになった。
あまりこちらが持ち上げられても困るので、大御所様を持ち上げておくか。そもそもこちらの望みを無量寿院が利するように見せて和睦を成すなど、並の者が出来ることでないわ。
北伊勢はこれから少し揺れることになるだろうが、ひとまずは役目を果たせたことに安堵するわ。
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