第千百四十二話・消えゆく村と大御所様
Side:とある伊賀者
信濃で先に動いたのは武田方であった。刈田をして米を奪い、村を焼き、人を連れ去っておる。
戦乱の世ではようあることだ。特にこの信濃ではな。国人衆にまとまりがなく近隣で争うことも珍しくない。武田に至っては日常茶飯事と言えるほどだ。
「しかし、酷い荒れようだな」
「致し方あるまい。これが戦の多い国だ」
無論、武田に従わぬ者らも何もせずに勝手を許しておるわけではない。隙をついて武田方の田畑を荒らして人を奪う。おかげで領境は荒れた田畑と人のおらぬ廃村が多い。
「見ろ、あの飢えた民の姿を。恐ろしい餓鬼のようだ」
甲斐では今年も米が不作であったという。さらに、ここしばらくの実入りのない戦続きで兵糧の負担が重く圧し掛かり、武田家も甲斐や信濃の者らも疲弊しておる。
我らは武田方を見張っておるのだが、稲刈りが終わる前からあちらこちらで勝手に略奪に出ておるのだ。武田もそれを黙認しておるらしい。
「我らもかつてはあのような様子であったのであろうな」
見張っておる武田方の村では、夜明け前から近隣の田んぼで刈田をしておったのだが、見つかると逃げるどころか挑発して小競り合いを始めてしまう有り様だ。
老いも若きも男も女も変わらぬ。奪わねば飢えるだけ。その手に粗末な槍や刀を持ち、飢えへの恐れとこの乱世への憎しみから奪い合い殺し合う。
見慣れた光景であるはずが、尾張を見ておるせいか吐き気を覚えるほど不快になる。
「負けられぬな」
「ああ、たとえこの命が縁もゆかりもない織田と久遠のための捨て石となろうともな」
これが、この乱世なのだ。与える者などおらず、わずかな食えるものを争うて弱き者が死んでいく。我らの生まれる前から続いておる当たり前の日常だ。
されど織田に降った者が飢えることはまずあり得ぬ。皆がすべて満足しておるとは言えぬのであろうが、この荒れた信濃よりは遥かに恵まれておる。
我ら伊賀者は織田に降ったわけではない。銭で雇われて各地に散り、当地の様子や噂話を探るのみ。されど、そのような我らでさえ、この乱世の唯一の光である織田と久遠の敗北を許してはならぬと考える者が増えておる。
「天が遣わした仏を守ることに疑念はない」
「そうだな。この命を賭しても守らねばならぬ」
織田内匠頭と久遠内匠助は天が遣わした仏であるなど、真偽の定かではない戯言だ。ところが伊賀者には信じる者がそれなりに多いのだ。
ああ、またひとつ村が消えたな。
Side:北畠具教
「無量寿院がここまで追い詰められるとはの」
無量寿院の使者が持参した書状を見た父上は呆れた様子だ。織田との交渉が上手くいっておらず、父上にまで助けを求めたか。
まとめられる者がおらず、また織田との話し合いも上手くいかぬ。そのことに業を煮やして、一戦交えることも辞さずと息巻く者が増えておるとのこと。
「それで父上、対価はいかほどで?」
「出来うる限りの返礼はするそうだ」
対価という言葉に父上がいささか眉をひそめた。商人のような口ぶりが少しお気に召さなかったのだろう。公卿家としての面目があるからな。とはいえ、それを言うても仕方ないと諦めにも似た顔をされて答えてくだされた。
いかほどの返礼があるか書かれておらぬとは。まことに払う気があるのか?
「恩を売るなら尾張のほうがよいと存じますが」
「そなたはまだ若いな。織田は飛鳥井卿を助けたいのであろう? ならばわしが仲介してやるのも悪うあるまい。織田は望む民を助けられれば寺も寺領も要らぬのであろう? その条件ならまとまるはずじゃ」
なんと!? 無量寿院の嘆願を聞いたふりをして織田の出す条件を飲ませ、織田にも恩を着せるおつもりか! 確かに悪い条件ではないが……。
わしが戻ったすぐあとに清洲から文が届いたのだ。こちらにも関わりがあることだからな。
「無量寿院からの返礼は銭か米がよいな。一回で払えるだけでよい。織田を怒らせたのだ。あらゆる売り物の値が変わり、すぐに荒れるはずだ」
「織田は交渉の使者として、清洲に飛鳥井卿と尭慧殿を呼ぶつもりのようでございますが……」
「ここに呼べばよかろう。話がまとまったあと、いずこに行こうがわしが知るところではない。それに清洲に出向けと言えば素直に従わぬぞ。さっさとケリをつけたほうが良かろう。織田は無駄を嫌うからな。念のため尾張に文を出すか」
確かに内匠頭殿は無駄を嫌う。織田の者もこの件にうんざりしておったが。
「飛鳥井卿とわしがまとめたことにする。さすれば飛鳥井家の面目も立とう。このあと荒れようが内乱や一揆が起きようが、わしと飛鳥井卿の仲裁を潰すのだ。兵を挙げても誰憚ることはあるまい」
父上もお人が悪い。隠居すると言うて織田に頭を下げると言いつつ、このような謀をするとは。
「この程度の謀は織田と比べれば子供騙しみたいなものよ。向こうは無量寿院をここまで追い詰めたのだからな。それに、あそこは面倒な勅願寺だ。この辺りで一度叩いておいても良かろう」
以前は随分と調子に乗っておったからな。無量寿院は。それが僅か数年でこうも変わるとは。
さて、織田はいかがするのであろうな。
Side:久遠一馬
飛鳥井さんから文が届いたので北畠家にすぐに知らせたら、その返事が届いた。どうも無量寿院が北畠にも助けを求めたらしく、仲介するのでこちらの要望を知りたいという確認だ。
無論、具教さんとは状況をきちんと話しているので、こちらが求める和睦案の内容の確認になる。
「流石は北畠家でございますね。お見事です」
こちらも急遽評定を開いて皆さんと相談するが、考え込む評定衆の皆さんの前でエルが一番喜んでいる。
確かに晴具さんが動けば一気に解決するかもしれない。とりあえず飛鳥井さんを無量寿院から一度引っ張り出さないと、なにがあるか分からないとこちらも動けないでいるんだ。
その飛鳥井さんとの繋ぎは、例の無量寿院寄りだと思っていた商人が繋いでいる。あの商人、あっちの内情をいろいろ知っていて、それもこちらに教えてくれているんだよね。
ほんと油断も隙もない。こっちが不利となれば無量寿院に利となる情報を流すんだろう。まあ、不利となる状況にはしないが。
「飛鳥井卿は無量寿院を切るおつもりのようだ。渡りに船であろうな」
尭慧さん、住持を退くつもりらしい。これ以上長引くと主上に御心配をおかけしてしまうと書いてあった。信秀さんは損切りだと言っているけど。
しかし晴具さん。隠居したとはいえ、この時代だと普通に実権を握って院政を敷くからなぁ。正直、どこまで現状に満足しているか分からない人だ。
織田とは争う気もないようだし、信用していいとは思うけど。今回の動きを見るともう少し警戒したほうがいいのかもしれない。単純に戦をしないで政治と外交で争われると面倒なことになる。
「兄上、場所は多気御所でよろしいので?」
「うむ、良かろう。こちらに無量寿院の使者を迎える面倒事が減るだけだ。北畠への謝礼で片付くならそれが一番よ」
信康さんは北畠を完全に信用していいのかと少し懸念を持っているようだけど、信秀さんは問題ないと判断した。見切りが早いんだよね。信秀さんって。無量寿院とは話すだけ無駄だと考えているようだ。
お金よりも時間が大切だというのは、多分オレたちから学んだのだろう。北畠家もカツカツらしいからなぁ。織田からの謝礼は喉から手が出るほど欲しいだろう。
「すでに末寺の寺領からは逃げ出しておる者もおります。飛鳥井卿が来たことで無量寿院に返されると噂になっておりますれば……」
信康さんの報告にため息が出る。この時代では丁寧に状況を教えてくれるメディアなんてないから、みんな自分の判断で動いちゃうんだよね。
無論、織田領ではかわら版や紙芝居、あとは命令を伝えることを重視してきちんとしているけど、すべては自己責任だから気の早い人は噂でも動いてしまうんだ。
秋の収穫が終わったところが多いことも理由にあるのだろう。収穫した米を売った銭を持って織田領に逃げてしまえばひと安心ということだ。
まあ、寺領も今のところ織田領なんだけど。
あと誰も言及しないけど、飛鳥井さんは末寺のお坊さんたちに恨まれているみたいだ。事情を知りもしない都のお公家様が一方的なことを言い出したとか。
無量寿院の過激派が飛鳥井さんの名前を騙って、戻れと脅すような文を勝手に出していたのが原因だろうけどね。
都のお公家さまになにが分かるのか。そんな憤りがあるらしい。寺社奉行となった千秋さんと堀田さんたちが宥めているが、この時代のお坊さんって大人しくないからなぁ。
ホント、寺と寺領を返しても起爆装置に点火した爆弾のようになる未来しか見えないんだけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます