第千百八話・夜も更けて
Side:塚原卜伝
梅酒の香りがとても心地よい。
日も暮れた頃、少し酒が欲しくなり頼むと、梅酒を湯で割ったものを出していただいた。
少し冷える夜にこれほど合う酒は初めてかもしれぬ。硝子の中で火が燃える南蛮行灯の灯火を見ながらの酒も悪うない。
酒を飲み、今日のことを考える。
未だかつて、自らの天下を終わらせようとした者はおったのであろうか? 新しき世の流れに抗うのが当然であろう。いや、それはすべてが終わったのちにそう見えるだけのことか?
剣に生き剣に死すと決めたわけではないが、わしが世の行く末にこれほど関わることになろうとはな。
神仏とて飢えで苦しむ者ですら助けてはくれぬ。すべては己が所業のせいであろうと言うのは容易い。されど仏の名を騙る坊主ですら欲にまみれておるのがこの世だ。
そんな世でまことに民を救おうとする者が現れるとは。仏の使いという噂。わしも噂がまことではないのかと思う時がある。
立ちふさがる敵を倒すだけではこの乱世は終わらぬ。それはこの歳まで旅をしておるわしがよう分かること。公方様のお考えは正しいはずじゃ。
「飢えぬ世か。いや、それ以上の世を見ておるのだ」
されど、わしですら世を正そうなどと思うたことはない。剣を振るい、この目に止まる者を救う程度ならばしたこともあるがの。
分からぬのだ。いかにすれば飢えず争わぬ世が来るかということが。
「剣がいるな」
わしに分かることと言えば、世を変えるには決して折れぬ剣がいるということか。武衛様はそれが内匠頭様であるとお考えなのであろう。
立ちふさがる者を倒したあとに、世をつくれる者がおるのならば戦う価値がある。
いかがなるのであろうな? わしもすでに退けぬところまできておる。公方様を焚きつけたのはわしじゃ。最後まで供をせねばなるまい。
まあよい。このまま年老いて誰ぞ名も知らぬ者に敗れ、そのまま死しても後悔はせぬのだ。共に新たな世を夢見るのも悪くはあるまい。
願わくは、わしの残りの命が明日を生きる者の糧とならんことを。
Side:織田信長
「吉法師はすでに寝ておるのか」
城に戻り、眠る我が子を見て思うことがある。親父の思い、母上の思い、爺の思い。オレもそんな歳となったということか。
身分ある者は自ら子を育てることはせぬ。母上がそうであったようにな。傅役がいて乳母がおる。無論、吉法師にも傅役と乳母がいる。
されど吉法師は帰蝶も育てておる。これはケティの助言に従うたものだ。さらに吉法師には武士として学ぶべきことも多いが、人として学んでほしいこともある。
かずは一歩近づいたかと思うと、二歩も三歩も先を行く男だ。吉法師にはかずのようになってほしい。
親父を信じさせ、公家を信じさせたかと思えば、公方様までも信じさせた。あのような男は他にはおるまい。
おかしな男だと今でも思う。信じるということがいかに危ういか、誰もが知っておるこの世で、何故、信じてもよいと思わせるのか。
「帰蝶、そなたかずを疑うたことはあるか?」
「疑ったことはないと思います。人を害することなく生きられる御方。美濃の父と対極でございますゆえ」
女の帰蝶から見て、かずはいかに見えるのであろうか。ふとそれが気になった。人を害することなく生きられるか。面白き言い回しだ。
義父殿とて好きで人を欺き害しておったわけではあるまい。
「かずらの恐ろしいところだな。誰も出来ぬことを平然とする」
人を害さず、騙すこともせずに謀をするからな。間近で見てきたが、あれは真似できるとは思えぬ。
このままでも兵を挙げれば畿内ならば平定出来よう。されど、かずらは未だにその時ではないと考えておる。
己で天下人になるなど嫌だと本気で口にするにもかかわらず、太平の世はほしいという。無欲に思えて欲深いのかもしれぬな。
夢ではないのだ。まことに日ノ本を平らげることが出来るところまできた。もっともこれからが大変なのであろうがな。
明日も忙しくなるな。オレも負けておれん。
Side:久遠一馬
屋敷に帰って待っていた資清さんと望月さん、妻のみんなに義藤さんとのことを話した。さすがにみんな驚いているね。
「ほんと思いもよらないことが起きるね」
ただ、オレやエルたちですらこの流れを完全に予測していたわけじゃない。義藤さんの考えをある程度は聞いていた。とはいえ理想と現実。足利義藤として現時点でここまで動くとは思わなかったというのが本音か。
「ああ、しばらくこの件は口外しないでね」
資清さんと望月さん、千代女さんとお清ちゃんの顔色が少し悪い。足利家が終わる。にわかには信じられないというところか。
「将軍として天下を治める姿を見てみたかったね」
なんとも言えない様子なのはジュリアか。史実の足利義輝は、乱世をなんとかしようとあがいていた印象がある。恐らく今の義藤さんとは考え方も生き方も違うだろう。
史実の足利義輝ではなく、この世界の義藤さんが将軍として天下を治める姿。確かに見てみたかったかもしれない。
「現状では私たちのやるべきことは変わりません。織田が天下に挑むのはまだ先のこと。今は領内のことはもちろんですが、三河と今川、武田の動きに注視しましょう」
説明の最後にエルが今後のことについて言及した。
現状では腹を割って話しただけで、日ノ本統一の道筋すらはっきりしていない。義藤さんも足利家を終わらせるつもりだが、具体的なロードマップがあるわけではない。
なにより尾張より西は、北畠と六角が試行錯誤して改革する時間が必要だ。政権移行だってこの時代だと簡単ではない。足利家が終わるのは、十年か二十年先になると考えるのが妥当なところだろう。
ただ、今回のことで織田の動きの幅は大きく広がる。足利家の力と権威が味方になると、それだけで史実の織田とはまったく違う動きが出来る。
日ノ本の外だってすでに元の世界とは違う。様々な要素を考えて、今後のことを改めて見直す必要がある。
一つ言えるのは、史実の江戸時代のような幕藩体制はないだろうということだ。時代劇だとあの時代も好きだったんだけどね。
とはいえ幕藩体制のデメリットは史実で明らかだ。別の形がいる。
まあ完全に近代化することもしないし、民主主義なんて危険なものはやるつもりもないけど。
多くの偉人が積み上げた史実に、オレたちはどこまで挑めるんだろうか。ここからはまったく新しい世界に足を踏み入れるのかもしれない。
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