第千六十六話・久遠諸島滞在中・その十
Side:久遠一馬
「おっきい猫!」
「市よ。これは……猫なのか?」
周囲がどよめく中、嬉しそうなお市ちゃんの声に信秀さんが戸惑いつつ声を掛けた。
まあ、猫には見えないよなぁ。お市ちゃんの感性はなかなか個性的なのかもしれない。
「ちがうの?」
「ええ、まあ。これが虎なのですよ」
そういえば、お市ちゃんにも教えてなかったなぁ。実は今日、みんなに珍しいものを見せたいと島内にある牧場に来ている。そこには馬、牛、豚、鶏などいるが、珍しい動物もいる。
お市ちゃんがおっきい猫と言ったのは、元の世界で言うところのアムールトラになる。当然ながら頑丈な鉄の檻に囲まれたところに入っている。
「おおっ、これが虎でございまするか!」
武闘派の人たちは初めて見る本物の虎に大はしゃぎになる人もいて、菊丸さんも最近は大人しくしていたが、今回ばかりは喜びの声を上げた。
『虎』は戦国時代では有名だ。日ノ本だと虎の異名を持つ武士がたくさんいる。強さの象徴的な存在なんだよね。
とはいえ、この時代の日本に本物の虎はいない。虎の毛皮は大陸から輸入品であるので、それなりの身分の人ならみたことがあるはずだけど。
「これが虎とは……」
虎の異名を持つ信秀さんも物珍しげに見ているね。自分の異名の元を見るなんて不思議な気分なのかもしれない。
肝心のアムールトラは見られることに慣れているんだろう。こちらを気にすることもなく、のんびりとしている。
「殿、あちらの大きなあれはなんでございましょうか?」
虎に興奮する一同の中で、少し離れた位置にいるとある動物に気付いたのは益氏さんだった。
「あれは象ですよ。天竺の近くから連れてきました」
「なんと、大きい……」
「象か。かつて四代義持公が南蛮から献上されたことがあるという。まさかこの目で見られるとはな」
虎に続き驚く一同だが、菊丸さんはやはり象の存在を知っていたらしい。オレも知らなかったが、記録として一番近いのは西暦一四〇八年に若狭国に漂着した南蛮船に乗っていた象が時の将軍に献上されたというものだ。
しかし、菊丸さん。真剣に荒れる世をなんとか治めようとしているんだね。過去をよく勉強している。
オレたちのような知識もなにもない。そんな状況だと過去は貴重な教科書になるからな。
「よろしければ触れてみますか? 象は優しい生き物なので大丈夫ですよ」
虎や象に見入る皆さんは楽しげだ。中には虎や象と戦えば討ち取れるかどうかという話に花を咲かせている人もいる。
ここには四頭の象がいるが、もちろん本物の象だ。妻たちが調教しているので乗れると聞いている。せっかくなんで象との触れ合いを勧めてみる。
乗せてあげてもいいんだけど、義統さんたちを見下ろす形になるのはよくない。さらに信秀さんと義統さんが乗らないと言うと、恐れていると思われるかもしれないからね。今回は触るくらいでいい。
「わぁ。おおきいね!」
「ほんとうだ!」
飼育員が象を引くように象を飼育ケージから出してくる。お市ちゃんと孤児出身の子たちは近寄ってくる象に嬉しそうに声を上げた。
ホルスタイン種の牛とか山羊とかアラブ馬とか、那古野の牧場でもいろいろな動物を飼育して育てているからな。新しい動物への抵抗が少ないんだろうね。
「あの長いのはなんじゃ?」
「あれ鼻なんです。象は鼻を器用に使うんですよ」
お市ちゃんたちが触れて撫でてあげると、他の皆さんも象に触れて撫でている。そんな中、義統さんが興味を持ったのは長い鼻だ。
餌となる干し草を与えると、器用に鼻を使って食べる姿が見られる。そんな姿に周りのみんなが物珍しそうな声を上げた。
こういう動物で世の中の広さを知ってくれるといいなと思う。直接、なにかが変わるわけじゃないだろうけどね。
Side:滝川益氏
殿が重臣である斎藤殿と氏家殿に、御家の秘するところを話すと聞いて案じておったが、上手く収まったようでよかった。
銭の鋳造と金銀の抽出は知っておる。尾張の工業村にてそれを差配しておるのはわしだからな。
尾張を出る前に殿より意見を問われた。そろそろ、そのふたつを織田家の重臣に明かすべきだと考えているが、いかに思うかとな。
わしはそのようなことを答える身分ではないので戸惑うたが、殿はそれでも職人らを上手く差配しておるわしの意見を求めた。
わしはしばし思案したのち、明らかにすべきだと答えた。
すでに久遠家は安易に潰されぬほどの力があるのだ。殿のお考えも皆が理解しつつある。日ノ本の外にある久遠家の本領で、いかなることをしようが殿の勝手というものだ。
もっとも、隠しごとが多ければ面白うないと考える者もおろう。それに疑念も生まれる。わしは御家に確とした力があり、尾張に与えるだけの利を得ていることを示すべきだと殿に進言した。
新参者として尽くすのもよい。皆で飢えぬようにと働くことも立派だ。されどな、人とは立派であればあるほど、まことかと疑い粗を探したくなるものだ。
わしの進言がいかほど役に立ったのかは分からぬ。されど、こうして皆が楽しげにしておるところを見るとよかったと思う。
彦右衛門はああ見えて真面目だからな。昨夜のことで少し悩んでおったようだが。
「なんとも大きゅうございますなぁ」
「力持ちだよ。ちゃんと調教すると働いてくれるしね」
日ノ本の馬が小さく見えるほど立派な象に見入っていると、殿より面白い話を聞いた。牛や馬のように働くのか?
「それは頼もしい限りでございますな」
「今は象を調べているところなんだ。どんな土地で生きていけるのか。どんなものを食べるのか。いずれ日ノ本にも運ぶと思う。尾張の民にも見せてあげたいしね」
御家では遥か遠くの地から作物や珍しき品を手に入れておるが、象や虎も同じということか。
「象も日ノ本で増やすのでございますか?」
「出来るならね。例を挙げると、あの虎は遥か北の地にいたんだ。だから寒いのには強いけど、暑いのはあまり好みではないらしい。象もそういうのを確かめて、日ノ本で増やせるものなら考えてみたいね」
御家で働く元孤児の子らが、象や虎の育て方を熱心に聞いておる。これからは己らで久遠家に尽くすのだと張り切っておったからな。
殿はそんな若い者たちを見て嬉しそうにされておる。
この荒れた世で情けで人を動かし、世を変えようとする。織田の大殿も真似ておるが、本来は我が殿のやられておることだ。
わしは新しきことを見つけることなど出来ぬが、それでもそんな殿やお方様がたが新しきことを見つけることが出来るように働くのが務め。
あの元孤児の若者らがあまり無理をせぬように、あとで言うておかねばならぬな。殿は無理をすることを嫌う。職人らもそうだが、きちんと休ませるのもわしの役目なのだからな。
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