第千三十三話・信勝の帰還と真柄の旅

Side:織田信勝


 父上に命じられて訪れた久遠家の本領を出立して、幾日過ぎたであろうか?


 無事、尾張に戻ることが出来た。


 船を降りたというのに、まだ揺れておるような気がする。供の者らは蟹江の賑わう景色に感極まっておる者もおるようだ。


 船旅で楽しかったという市や叔父上がいかに優れておるか、身を以て知った。二度と乗りとうないと陰で言う者がおることも頷ける。


「ふふふ、いい経験だったろ?」


 そんな我らをリーファ殿が笑顔で見ておった。船が好きなことから、一年のほとんどを船の上におるという。久遠殿の奥方は変わっておる者が多いが、リーファ殿も相当なものだな。


「はい、得難き見聞の数々、ありがとうございました」


 もっとも、船の上では面白き話を幾つも教えてくれた。世の中は日ノ本の外のほうが遥かに広いこと。我ら日ノ本の民とはまったく異なる神仏を信じて生きておる者らのことなど、様々なことを教わった。


 最後に船に向かい深々と頭を下げると、出迎えの者らが驚いたのが見えた。久遠家は織田家の家臣であることに変わりはない。それ故に私が頭を下げたことに驚いたのであろう。


 織田弾正忠家は大きくなったからな。驕っておるのか勘違いする者が増えつつある。されど、それは久遠家の働きがあってのこと。


 もう少し言えば、私は弾正忠家の男ではあるが、それ以上ではないのだ。頭のひとつやふたつ下げて当然。


 そもそも父上や兄上ですら、決して久遠家を軽んじることはしておらぬ。礼儀を通すのは当然のことだ。


 船を降りた私は、無事『検疫』を済ませ、そのまま清洲へと向かう。馬車に乗ると清洲まですぐだ。今では道も良うなったし、川には橋もある。船と比べると揺れることもなく、小者に牽かれて乗る馬よりも遥かに速く楽だ。


 これも久遠家のおかげで成し得たものだ。


「ただいま戻りましてございます」


 清洲城に着くと、湯を用意させて、船旅の塩と垢を落とし、身支度を整えて父上と母上と兄上に帰還の挨拶をする。


「いかがであった?」


「多くを学ばせていただきました」


 父上の言葉に安堵したと同時に、久遠家の苦労と凄さを改めて感じる。人が成せぬことをするには、人とは違う苦労と積み重ねがあるのだという雪乃殿の言葉が思い出される。


「市と孫三郎殿は、また行きたいと言うておりますね。貴方はいかが思いますか?」


「行きたいと思うところもありまするが、怖いところもありまする。私は久遠家の船に守られて乗っておっただけの身。己で船を差配してと考えると、私では難しゅうございます。母上」


 リーファ殿と雪乃殿の船は、久遠家でも一、二を争うほどの船だという。それ故に取り乱すことも恐れることもなく戻れたが、己で船を持てと言われると怖くて出来ぬと思う。


「伊豆諸島はいかがであった?」


 続けて問うたのは兄上だ。あそこは日ノ本の島なれど、北条から譲り受けたのは久遠だからな。今後いかにするのか、難しいところだ。


「久遠島とは違いました。いずこにでもあるただの島でございます。されど、久遠家の本領とまではいかずとも、いずれは島を豊かにすると思われまする」


 地図で見ると要所の島と言えよう。されど北条でさえ配下に治めさせておるだけの島だったところだ。久遠家でなくば使える島ではあるまい。


 此度の旅で学んだのは、尾張がまだまだ物足りぬということだ。学ぶべきことは多い。父上はそれを理解して私を行かせたのであろうな。




Side:真柄直隆


 朝倉の使者として尾張に行く前に一乗谷城に出向くと、そこで初めて公家と共に尾張にいくのだと知らされた。


 宗滴のじじいめ。公家のお守なんて聞いてねえぞ。道中の旅費を出してもらうのをこれ幸いと思ったら……抜け目がねえじじいだ。ありゃ、当分死なねえな。


 もっとも朝倉の殿からは、結構な量の金と銀をもらった。尾張で珍しいものがあれば朝倉の殿の名で買うてもいいとさえ言われたが、オレは商人じゃねえぞ。


 ただ、朝倉の殿とお会いして面白いことが分かったことがある。朝倉の殿は織田と戦をする気がまったくねえってことだ。


 まあ、斯波にとって朝倉は謀叛人でしかないが、朝倉としては昔の管領の命で動いたに過ぎないという体裁だ。今も傀儡の主家がいるからな。


 無論、尾張に使者を出すのが気に入らないのか。中には、斯波や織田など捨て置けばいいものをと、わざわざオレに言う奴もおったが。


 知らねえっての。朝倉のことは朝倉でやってくれ。オレは朝倉の家臣ではないし、家臣になる気もねえ。頼まれごとをするだけだからな。


 共に行くのは朝倉の家臣らと公家衆に商人もおる。土産と商いのための荷も多いとくれば面倒だが、今更ひとりで行くとも言えねえ。


「しかしあれだな」


「真柄殿いかがした?」


「ここらの奴らは戦でもする気か?」


 越前を出て北近江に入った。北国街道を下って、そのまま東山道に入ったほうが道も良くていい。美濃に入ると賊もほとんど出ねえしな。


 ところが北近江がおかしい。いずこがおかしいのかと問われても困るが、まるで戦か一揆でも起こるような感じに思える。


「ああ、宗滴様もここは気を許すなと仰せだったところだ。先年の織田との戦で負けて六角に従っておるが、面白うないのだとか」


 去年の帰りは急いでおったこととわずかな供の者だったので気付かなかったが、ここらは以前からこんな感じだとは。




 その後、東山道に入ると一度賊に襲われた。ただの賊だ。ふたりばかり斬ったら逃げていったからな。


 幸いだったのは、公家の奴らが大人しく歩いていたことだ。いろいろと面倒かと思ったが、それだけ尾張の花火ってやつが楽しみで仕方ねえらしいな。


「ここままで来れば襲われまい」


「あれが新しき城か。ここにこれほどの城をわずかなうちに作るとは……」


 結局、一息つくことが出来たのは関ヶ原の町に来てからだった。美濃に入ってからは道も良くなり、一気に歩きやすくなった。


 朝倉の家臣らは山城と町に驚くどころか戸惑うておる。


 確かに、ひと冬で町が大きくなってねえか?


 前に旅の武芸者に聞いたことがある。いずこを旅しようとも楽な土地などないとな。都ですら荒れ果てていて、気を抜けば寺の坊主すら寝込みを襲う。


 ところが織田の国は違う。少なくともオレが見たところは、旅をする者を騙そうとしておるところはなかった。


 本当に織田は何故、これほど違うのかね。




Side:久遠一馬


 大湊が少し揺れていると知らせが届いた。


「会合衆たちですら、知らないところで決まるからねぇ」


 湊屋さんの報告に縁側で暇そうにしていたジュリアが面白そうに笑った。


「以前からあったことでございます。ただ大湊の商人で水軍を営む者もおります故……」


 湊屋さんが、そんなジュリアになんと言っていいか迷いつつ答えた。


 服部友貞の一件以来、大湊とは実際の力関係はさておき、表面上は対等な立場で相互協力しつつ繁栄してきた。その事に大湊も不満は漏らせないのだろう。


 ただし、対等な立場では織田のやり方に口を出す権利もない。気が付くと周囲の水軍はすべて織田に吸収されてしまい、北畠家ですらなんとか生き残ろうと四苦八苦をしている。


 水軍における勝手な徴税の禁止や海上のルールも、大湊は決まってから根回しをして知ったことになる。


 無論、こちらとしては大湊にお願いはするが、強制などしていない。でもね。大湊にとって断れないことが決まってから知らされるのは困るんだろう。それは理解する。


 北畠と長野の戦で安濃津も織田の支配下に入った。尾張と伊勢の沿岸にある大きな湊で、織田に従っていないのは大湊だけになるからな。


 このままでは自分たちだけが放置されて、いずれ捨てられるのではという懸念があるらしい。


「こっちとしては十分配慮しているけどね」


 大湊とは共存共栄が方針だ。事前に漏らせないこともあるが、大湊が困らないように根回しは慎重にしている。


 大湊は伊勢神宮の湊であり、北畠家の勢力圏でもある。そして会合衆が治める公界という独立した場所でもある。今まではそれでよかったが、現状ではむしろデメリットになりつつあるのを察したらしい。


 安濃津がこちらの手に入ったのは予想外だったけど、もとはあそこも大きな湊だった。整備してうまく使えば大湊の利が減ることも十分あり得る。


 危機感を持ってくれるのはいいけどね。


「現状だとこちらから動くことはないのよね」


 絵を描いているメルティをちらりと見ると、この件は大湊次第だと苦笑いを見せた。


 懸念は海上輸送におけるルールだけではない。水軍衆の取り込みをした結果、沿岸部の多くが織田領となったこともある。


 沿岸部で織田領以外として残る土地は、神宮か大湊の領地がほとんどで、大湊もあの辺りの土地を領地として持っているんだよね。町の食料を賄うだけの土地を。


 その土地の領民の暮らしが、織田領になった近隣の沿岸部と格差が生じると大変なことになると理解していることも大湊が慌てている理由だ。


 とはいえ、商いのことはともかく、領地運営までこちらが口を出すのは大湊の人たちも面白くないだろうし、こちらから動くことではない。


 まあ伊勢神宮とは伊勢志摩の神宮領について話している。沿岸部でも神宮領があるところもある。ここだけ残すと格差が問題となるし、織田の統治について改めて説明がいるからね。


 大湊の件は伊勢神宮と話すほうが先かな。



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