第五百九十一話・浅井との因縁
Side:近江の方
「本当にありがとうございました」
満面の笑みで深々と頭を下げた老人を見送り、私は一息つきました。
「近江の方様、いかが致しましたか?」
ため息にも見えたのでしょう。年配の看護師が声を掛けてくださいました。看護師とは医師の手伝いをする者の呼称です。滝川家の縁者なのだそうで、薬師の方様たちが尾張で病人を診察し始めた当初からお世話をしていた方だとか。
「いえ、人は心から感謝すると、あのような笑顔になるのだと初めて知ったのです」
私を案じてくれたのでしょう。ここでは身分に問わず医師がすべてにおいて優先されます。とはいえ、私はまだ織田家に臣従していない斎藤家の者です。不慣れな私が苦労しないかと皆が気にかけてくれます。
されど、私は疲れたのではありません。今までの日々とここでの暮らしがあまりに違うのでつい感慨深いものがあっただけになります。
私が物心を付いた頃、父である
私も姫と呼ばれて皆に頭を下げられておりましたし、斎藤家に嫁いでからもそれは変わりませんでした。
しかし心から感謝をして頭を下げられたことは、ここにくるまでありませんでした。
「ああ、そうでございましたか。ここにいる皆もそれは同じでございますよ。薬師の方様と光の方様など拝まれることも多く、困っておられます」
当たり前だと思っていた日常は、とても狭く
ここでは皆がひとりでも多くの患者を救おうとしております。仏の如く拝まれようとも、人として最善を尽くすのみ。そんなここで私が必要とされることが、なにより嬉しいのでございます。
兄の浅井久政には絶縁されてしまいました。ただ、思っていた以上に悲しみはありません。己ほど賢い者はいないと考えているような兄です。私のことも道具程度と考えていたのでしょう。そんな道具に反抗されてさぞ怒り狂っているのだと思います。
「織田家は……、私のせいで多くの銭を使うことになってしまいました。戦も起こるでしょう。私は……、私はそれにどう報いて償えばいいのでしょう」
この場所で働けることへの感謝を私は心から感じておりますが、同時に気になるのは以前桔梗の方様に言われたことでございます。
私の決断と行動により、織田家と斎藤家は浅井家と戦になる。ここで命の重みを感じた私に、その事実は思っていた以上に重いものになります。
「それはちょっと違うよ」
背後から突然聞こえてきた声に私はつい身を
「御方様……」
「浅井とはいずれ戦になったと思う。斎藤家もあなたも悩んで決めたこと。すべてを己のせいだと思っては駄目だよ」
にっこりと幼子のような笑みを浮かべた光の方様は、駆け寄ってきた幼子の患者を抱きかかえると私にそう言うてくださいました。
「ですが……」
「人はね。生きていればみんな、多かれ少なかれ背負うモノがあるんだと思うの。私もあなたもみんな。だからこうして一緒に頑張ることが大切なんだよ!」
幼子をあやしながら診察室に戻られた、光の方様の言葉が私の胸に響いております。
ああ、そうですね。私は浅井亮政の娘ではありますが、今は斎藤家の女。我が子と斎藤家のために頑張らねばなりません。
なにかを背負うのは私だけではないのですから。
Side:久遠一馬
「やっぱり、そうくるか」
甲斐の武田家から書状が届いた。子供を学校で学ばせてほしいという要請だ。
「さすがは甲斐源氏である武田家というところでしょうな」
資清さんも武田家の動きに侮れぬと気を引き締めている。
許可をすれば新しい知識を学ぶと同時に、それを口実に尾張に武田家家臣が滞在することになる。
今川家に対抗するうえで、斯波と織田との関係強化が最優先だと考えているんだろう。関係が強化されれば塩や兵糧に武具の調達も楽になる。史実では今川氏真が武田家との対立で塩などの荷留していたはず。そんな事態も想定したか。
「断れませんね。とはいえ無条件では無理です。
エルに視線を向けたが、断れないと言い切った。こちらは中立の立場で、今川家と武田家を上手く争わせるとなれば、武田家との関係悪化は避けたいところだ。それに織田と誼を結ぶ以上は関東に攻め込む選択肢を潰せるかもしれない。
「学校の増築が順調なのが幸いか」
学校は昨年の半ばから伊勢の宮大工たちが増築している。北畠家の具教さんと神宮に根回しして頼んだら、神宮の宮大工たちが来てくれたんだ。お金がなくて神宮では仕事が多くないようだからね。
元の世界のように初等教育・中等教育・高等教育と年齢や学力で分けて指導することや、職人などの技術職などの専門的な教育をすること。それと武官と警備兵の座学を学校で行うことを検討しているので、その対応など当初の倍以上に学校は大きくなる。
あとは病院も医師と看護師を育成するための学び舎の建設や入院施設の増築もしている。
「領外の者への指導内容の選別、その素案を考えるようにアーシャに指示しておきます」
「そうだね。そこは学校の講師陣に任せよう」
講師陣は沢彦宗恩さんを筆頭に尾張で著名な教育者や学識者が学校には集まっている。学校が始まって以降はアーシャと講師陣が話し合って学校に相応しい人を招いて指導してもらっているんだ。
エルが言うように、学校の件はまずは学校の意見を聞くことが重要だろう。
「お久しゅうございます」
そんな武田家の件を話し終えると、意外な人物が訪ねてきた。
「お元気そうでなによりです。ですが突然の訪問とは、いかがされたのですか? 稲葉殿」
訪ねてきたのは稲葉一鉄。一鉄は出家した際の法名なので、この時代では
「某、織田様に臣従しようと思うております。是非お取り成しをお願い致しまする」
先触れはあったが、用件までは聞いてないので何事かと思ったら、臣従? このタイミングで? この人って、道三さんの義理の兄なんだよね。義龍さんのお母さんの兄になる。斎藤家の親戚であり、独立領主の中でもそこまで織田との関係は悪くない。
とはいえ自分から臣従を言い出すタイプでもないと思ったんだけど。
「理由は浅井家でしょうか?」
「さすがは大智の方様。ご賢察の通りでございます。今また浅井が美濃に攻め寄せようとしておる時に、黙って見ておることなど出来ませぬ。某の父と兄たちは先代の浅井との戦で皆亡くなっておるのでございます。斎藤山城守様とも相談して織田様に従いまする。その代わり浅井との戦では是非、某に先陣を命じていただきたく参上いたしました」
ちょっと理由がわからなくてエルに視線を向けると、エルが核心に踏み込んでくれた。稲葉家と浅井家には因縁があったのか。
「うーん。お気持ちは重々理解致しますが、稲葉殿が考える戦になるか分かりませんよ。織田は浅井の戦に合わせる気はないので」
「構いませぬ。浅井を恨んでも詮無きこと。復讐に猛っておるわけではありませぬが、今一度浅井と戦うことになったというのに、黙って見ておることは出来ませぬ。何卒、某に父と兄たちの無念を晴らす機会を与えていただくように伏してお願い申し上げます。無論、織田の法には従いまする」
「分かりました。先陣はなんとも言えませんが、私からも殿に推挙してみます」
ここが譲れない一線だという絶対的な決意が見える。
オレでは先陣の約束は出来ないけど、この人を下手に拒否すると暴走しかねない。本当に頑固そうな人なんだよね。
というか何故ウチに来た? 道三さんの入れ知恵か? まあ道三さんが頼むよりウチが頼んだほうが織田家中で軋轢とか疑念とか生まれないだろうけどさ。
根回しが上手いのは当然か。この時代の人にとっては当然のことだから。
こちらとしても歓迎するべきだ。これで西美濃が一気に動くかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます