第五百八十二話・近江の火種

Side:浅井久政


「それは……」


 年も明けてしばらくして、観音寺城に呼ばれたので来てみれば……。


「まあ、そなたの妹御もよくよく考えてのことであろう。こんな世だ。縁は多いほうがよい。面白うないかもしれんが、ここは賢明な判断をするべきだと思うがの」


 六角当主の定頼から言われたことに、驚き言葉が出てこなんだ。


 美濃の斎藤が尾張の織田に臣従をするだと? 蝮はなにを考えておるのだ。美濃をまとめるべき立場であろうに。それを放棄するとは何事ぞ?


 承服出来ぬのは、蝮の嫡男にやった妹がそのまま織田の人質となることだ。何故、左様なことをする。人質を出すならば己の娘でも出せばよかろう。


 しかもわしに知らせる前に六角に手を回すとは。いかほどにまでわしを軽んじれば気が済むのだ。


「管領代様はそれでよろしいのでございますか?」


「織田とは誼を深めておる。北伊勢や近江に手を出さん限りは好きにすればよい」


 思わず拳を握り、やり場のない怒りが込み上げてくる。織田に臣従するのは仕方ないにしても、何故、誰もわしに言わぬのだ。すべて決まってから知らせて済むと思うておるのか?


「そなたの領地とて尾張からの品が入ってきておろう。下手に動けばそれが止まるぞ。桑名の件は知っておろう」


 荷を止めて困るのは織田も同じ。わしの知ったことか。


「家中はそれでは収まりませぬ」


「それはそなたの力不足だと言うておるのと同じぞ」


 迂闊なことは言えんな。六角も所詮はわしを国人程度としてしか見ておらん。気に入らねば攻めてきてもおかしくないのだ。


「善処致します」


 誰も彼もわしの面目など、いかようでもよいということか。この場は引き下がるしかあるまい。たかが女の分際で、わしの面目を潰したあの愚か者は絶縁してしまうか。


 今に見ておれ。




Side:六角定頼


「不満そうでしたな」


 浅井久政が不満そうに帰った。横に控えておった蒲生藤十郎がそんな浅井に不快そうな顔をしておる。


 元々近江は南北に分かれておって、京極家の治めておった北近江と我が六角家の南近江は必ずしも上手くいっておったとは言えぬからな。あの態度に苛立つのも分かる。


 とはいえ隣国などそんなものだ。隣国の成り上がり者に戦もせずに臣従する蝮のほうがおかしいのだ。


「頭では分かっておろう。とはいえ己の面目が立たぬと腹を立てても当然。だが面目を立てたくば強くなるしかないのだ」


 奴も愚か者ではないが、いささか物足りぬ男ではある。国人としてはそれなりだが一国をまとめるには足りぬ男だ。六角家にとってはちょうどよい男だがな。


「されど、あれでは美濃に手を出しますぞ。あの男は家中の統制すら、満足にとれぬ男」


「よいではないか。浅井が勝てば不破の関が我が手に収まる。もっとも、万にひとつも勝てぬであろうがな。織田が近江に攻め込む前に和睦を斡旋すればよかろう。さすれば、浅井も大人しくなる」


 確かに藤十郎の言う通りだ。浅井家中の状況と久政のあの様子では、報復に美濃に攻めてもおかしくはない。とはいえ浅井が勝っても負けてもわしに損はない。


 すでに国境の国人、不破は織田に臣従したと聞く。浅井はそれすらも知らぬのであろう。美濃に手を出せば織田が出てくる。少なくともあの男に勝てる相手ではない。


「御屋形様、それで土岐家の旧臣どもを放逐したので?」


「騒ぐだけの愚か者など要らぬ。今、織田と戦など出来ぬのだ」


 年が明ける前、わしは美濃を追放されておった土岐家旧臣を放逐した。もう少し役に立つかと思うたが、美濃奪還を叫ぶだけでは目障りなのだ。


 美濃におる親戚とつなぎをとり、静かに機会を窺うくらいすればよいものを。いたずらに騒ぐばかりなのだ。禍根を残したくはない。


 仮に美濃を攻めるとしても、それは六角家が主体として攻めるのであって土岐家ではない。


 あの手の輩は、己を重用せねば平気で裏切る。放逐するなら早いほうがいい。


「三雲にも困ったものだな。滝川と望月への苛立ちで周りが見えんとは」


 それともうひとつ、連中を放逐したわけがある。六角家中に連中を煽る者がおるのだ。三雲家もそのひとつになる。


 滝川と望月。今諸国が注目しておる久遠の重臣だからな。見下しておった者たちの立身出世に苛立つ気持ちは分からんではないが。


「甲賀では尾張を羨む者も多いと聞き及びます。三雲殿の懸念も理解出来まする」


「では久遠に素破を厚遇するなと言うのか? それこそ愚かだと天下に晒すようなもの。あれは新参である己の身を上手く利用した久遠の策だ。止めようがない。むしろこちらは利用すべきこと」


 甲賀はかつてまがりの陣にて六角家の危機を救った土地。されどその割に報いてきたかといえば、首を傾げたくもなる。


 それに貧しい土地からより豊かな暮らしを求めて出ていくのは当然のこと。それを無理やり止めようとしたところで上手くいくはずがない。


 それも分からぬから素破と軽んじられるのだということを、三雲家も分からぬのであろうな。


「そういえば、甲賀衆が来なくなったと細川殿から文が届いておりますが……」


「放っておけ。こちらから出したところで見返りもろくにないのだ。それにあの男では天下が荒れるばかりだ」


 甲賀は変わりつつある。尾張の久遠によってな。畿内では特に甲賀衆の扱いがようない。働きに出るならば尾張に行くのだ。


 畿内に行くのは三雲家のように、滝川や望月に頭を下げとうない者ばかり。とはいえ報酬と扱いが天と地ほど違うのだ。


 特に細川晴元は甲賀衆の扱いが良うない。まだ堺などは尾張をみて配慮しておるらしいがな。


 おかげで晴元の下に行く甲賀衆は、三雲家のような尾張に行くのを自ら禁じた家くらいだ。それでもあまりの扱いの違いに行く者が少のうなってしまい、甲賀衆を寄越せとの文が届く。


 あの男は己以外の者を道具程度にしか思っておらぬ男だ。わしですら縁を切りたいくらいだというのに。必要以上に手を貸すべきではあるまい。


 ため息が出てくるわ。皆、己のことしか考えん。現状の畿内は織田がまだ大人しいので救われておるのだ。誰もそれを理解しておらぬ。


 織田が動けば、関東から畿内を通り越して西国まで巻き込む騒乱になるぞ。


「御屋形様。いっそ織田と手を組み、畿内を一気に制しては?」


「そうだな。織田が美濃を落ち着かせた頃に、それが許される状況ならば、それもよかろう」


 藤十郎は理解しておるか。いたずらに戦をせず領地を富ませることで強くなっておる織田がもう少し落ち着けば、確かに一気に畿内を制しても面白いかもしれん。


 とはいえ今はまだ織田にもそんな余裕はなかろう。それに公方様もそれを許すまい。己の力で天下を治めたいお方だからな。


 されど、最早この荒れた世を治めるのは足利家では無理なのだ。


「一度会うてみたいものだな。虎を仏へと変えた者に」


「はっ、某も同じ思いでございまする」


 立場上難しいことだが、会うてみたい。日ノ本の外を知る男が、この荒れた世を見ていかに思い、いかに考えるのか。


 六角家とて土岐家のことは笑えぬ。明日、我が身に降り掛からんと、何故言えようか。


 このままではいかんのだ。六角家もな。だがわしには、いかにすればよいのか分からぬ。


 こちらから出向けば会えようが、理由もなく近江を離れるわけにもいかぬ。なんとも難しきことよ。




◆◆

浅井久政。史実の浅井長政の父親。斎藤義龍の奥さん、近江の方の兄。


蒲生藤十郎。蒲生定秀。六角家重臣。


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