第三百七十五話・今川家の分岐点

Side:今川義元


 尾張に行った雪斎が戻りて参ったが……。


「では、なんの策も浮かばぬと?」


「現状を変えるには大きな賭けに出るか、妥協致すしかありませぬ。なにも失わずに思うがままに勝つなど出来ることではありませぬ」


 雪斎が自ら行きたいというので許したが、さしたる収穫もないとはさすがに落胆してしまうわ。


 無論、雪斎を責める気はない。わしとて同じなのじゃ。仮に久遠が野放図で守りの手薄じゃった時期に殺めておればとは僅かに思うが、噂の今巴の方とやらはあの塚原卜伝が認めて僅か数か月で免状を出したほどの女じゃ。


 他にも武芸に秀でた奥方がおるとも聞く。仮にあの時に刺客を送っても、防がれたのかもしれんの。


 それに頭の痛きことは他にもある。また金色酒が値上がりしたのじゃ。久遠家が使う行商人を岡部が捕らえたことが理由であろうの。わしならばまだ買えるが、そろそろ家中で名を為しておっても年に数回も買えぬ者が出てくるはずじゃ。


 いっそのこと北条から買うたほうが安くなるほどじゃが、北条は金色酒を売る相手をすべて氏康が決めておるようじゃ。わしら今川には売らんであろうの。


「それで行商人が忍び衆じゃという話はいかがした?」


「行商人や流れの薬師の中にも忍び衆がおることは確かでございましょう。されど、ただの行商人や薬師もおりまする。それに忍び衆も領内を荒らすことはなく、城などに忍びこむこともなく、ただ商いで得た話を持ち帰る。これが大半の忍び衆の正体かと思われます」


 それと金色酒の話に付随致すが、岡部が久遠の忍び衆を捕らえて始末するというので任せたのじゃが、まさか駿河であのようなことをするとは思わなんだわ。


 駿河は我が今川家の本領であり、敵国ではないのじゃ。領内に来る行商人や薬師を怪しいというだけで捕らえていかがする。しかも、北条へ戻る途中の行商人まで捕らえてしまい、北条から正式な抗議が来たわ。怪しいという理由だけで人を捕らえておったら、領内が立ち行かぬようになるのが何故わからぬ。あの武骨者めが!


「捕らえるのは無理か。相変わらず、いやらしきことをするの」


「とはいえ、こちらも同じことは出来まする」


 結局、肝心の忍び衆とやらを捕らえるのは無理ということかの。他国の者が領内に入っただけで捕らえておっては諸々の品が足りぬこととなろう。


 本当に忍び衆とやらは上手い手を使うの。いや、久遠家が素破をうまく使うておるのか。


 素破は、野盗と変わらぬ下賤の者。なにをするかわからぬ連中なのじゃ。仮に連中を商人としてまっとうに働かせられるならば、今川家でも同じ手が織田や北条相手に使えるかもしれぬということか。


 じゃがそれも楽ではあるまい。そもそも駿河から尾張になにを売るのじゃ?


 それにじゃ。織田が金色酒だけでなく、絹織物や綿織物まで値上げしておるのじゃ。駿河、遠江と東三河の商人だけにの。それをいかがするかも考えねばならぬ。


 南蛮船を持ち、自ら明や南蛮と交易する織田には商いでは勝てまい?




「御屋形様。実は、拙僧は信秀に会いましてございます」


「なんじゃと!? 聞いておらぬぞ!!」


「向こうから接触してきました故……」


 尾張での話が佳境を過ぎし頃、雪斎は突然とんでもないことを言い出したわ。


 まさか、信秀め。雪斎に接触してくるとは。よく生きて戻りたものじゃ。


「して、いかがであった?」


「日ノ本から戦をなくす策を問われました」


 日ノ本から戦をなくすじゃと? 成り上がり者の分際で何様のつもりじゃ?


「信秀は本気でございました。少なくとも拙僧を謀るのではなく、本気でそれを問うたように見えました」


「いかに答えた?」


「仏を信じて徳を積めばと答えましてございます。されど神仏を信じる者同士で殺し合う世にそれでは不足であろうと言われましてございます」


 なにを考えておる? 自らが本気で天下取りをねろうておるのか?


 偶然、南蛮船を手に入れて少し調子に乗りておるのではないか?


 そのような夢想など答える価値もないわ。今までいったいいかほどの者が天下を治めようとしたか知らぬのか?


「御屋形様。武田と手を切りて甲斐を攻めるべきでございまする。さすれば三河と遠江を織田に奪われても、駿河から北に今川が生きる道が出来ますれば……。北条とは縁戚。御屋形様さえお覚悟していただければ、拙僧がこの命に代えても織田と北条と和睦を結んでみせましょうぞ」


「そなたほどの者がなんと弱気な」


「足利の世は終わると拙僧は見てございます」


「織田の世が来るというのか?」


「分かりませぬ。されど足利の世にとどめ刺すは、織田ではなかろうかと思いまする。駿河を守り今川家の存続に総力を傾ければ、必ずや今川家にも光明がみえましょう」


 雪斎とは長い付き合いじゃが、これほど真剣で鬼気迫る雪斎は初めてかもしれぬわ。


 決して私利私欲ではない。わしのため、今川家の行く末のために雪斎は命がけで語りておるのじゃ。


「雪斎。わしとそなたの仲じゃ。本音を言え。互いに隠し事は不要ぞ。わしでは織田に勝てぬか?」


「戦の勝ち負けで勝敗を決められれば、まだ良きことかと思いまする。織田は、いや久遠は戦をせぬままに今川を潰す気でございます。口惜しきことながらそれにこうずるには、すべてを懸けて織田と戦うか、甲斐に進むしかありませぬ」


 戦で勝敗が決められぬとは……。考えもせなんだわ。


「恐ろしき相手じゃな……」


「すべては織田、いては久遠の策を見抜けなんだ拙僧の不明がせき。腹を斬れとおっしゃるならば、すぐにでも斬りましょう」


「やめよ。そなたがおらねば今のわしはないのじゃ。共に戦場で果てるならばともかく、腹を切るなど許さん」


「御屋形様……」


「敵とはいえ認めねばならぬ。そうであろう? 成り上がり者であるが、それを言うたところでおのが無能をさらすようなもの。織田は強いのじゃ。戦においても政においてもな」


 口惜しきことよ。手に握る扇子を折れんばかりに握るが、それでもわしは冷静でなくてはならんわ。


「雪斎。いましばらく時をくれ」


「はっ。心得ております」


 足利の世が終わるか。実の所、すでに足利の世などありてなきようなものよ。管領やら三好にいいように使われる公方とは情けない。


 わしがもう少し畿内に近ければ、この手で終わらせてやりしものを。


 畿内の連中はなにも分かりておらん。敵とは言えまだ信秀のやり方のほうが理解出来るわ。


 いかがする? 今川家の誇りのために全てを懸け、織田と戦うか? じゃが織田がそれに乗らねば意味がない。


 そもそも織田との戦に武田が味方するのか? 北条との同盟を理由に今川と手切れじゃと言うて駿河に攻めてくるのではないのか?


 仮に武田にその気がなくとも織田と北条が本気になれば、武田を中立にするくらいは簡単に出来ようの。商いの利は武田にとりても大きいのじゃ。


 戦をしても勝てぬではないか。信秀と久遠の首を取らねば今川に勝ちなどないのじゃ。


 じゃが我が今川の家中は、遠江をうしのうての織田との和睦などだんじて認めんはずじゃ。今まで築き上げしすべてを捨てる覚悟がいるわ。


 斯波にも信秀にも頭を下げる覚悟も必要であろう。わしに出来るか? それが?


 分からぬ。分からぬのじゃ。


「会うてみたいものじゃな。信秀に。久遠一馬とやらに」


 雪斎をここまで追い詰めた者に会うてみたいわ。わしも尾張に行けばよかったか?


「美濃の斎藤と長島の願証寺は、織田と共存する道を選んだ様子。六角、朝倉、北畠などまだ周囲に敵になりそうな者はおりますが、いずれも織田に総力を傾けられるはずもなく……」


「仮にじゃ。畿内が纏まり織田討伐をさんとすればいかがなる?」


「勝敗は決まらぬかと。必ずや織田に付く者が出ましょう。特に本願寺が織田に付けば形勢はいかがなるか……」


 八方塞がりじゃな。


 確かに畿内が纏まるなど、信秀の申す戦のない世とやらよりも夢想もいいところじゃ。


 織田は太平なる世を目指しており、民草を食わせるだけの富も潤沢にあるのじゃ。織田の味方をする者が必ずずるはずじゃ。


 奪えばすべて手に入るかもしれぬ。じゃが奪りてもそれを使つこうてしまえばうなるだけじゃ。


 富を生み出せる者の強みに気付く者は必ずや出でてくるじゃろう。


 わしは大変な時に今川家を継いだのかもしれぬな。



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