第三百六十九話・熱田祭り・その四

Side:願証寺の僧


「素晴らしい賑わいですね」


 嬉しそうな証恵しょうえ上人の言葉に誰もが安堵した。まさか自ら妻子を連れて熱田祭りに行くと言い出すとは思わなんだ。


 懸案だった桑名のことで、織田が驚くほどあっさりと引いたこともあるのだろう。


 実は願証寺内には織田が桑名を寄越せと言うのではとの懸念もあった。それに久遠殿の桑名に対する怒りも大きいと噂だったのだ。今の織田で弾正忠殿の裁定に口を挟めるのは平手殿と久遠殿くらいであろう。


 特に織田躍進の立役者たる久遠殿は、商いに関してはかの者の意向がすべてではとさえ言われておる。


 事前に根回しをしてみたが、蓋をあけてみればあっさりと商いの再開に同意した。金色酒の売買を筆頭に願証寺は久遠殿と関係が深いとはいえ、少し驚いたのが本音だ。


 織田が堺と対立し始めたこの機を、反織田と言える桑名の会合衆に不満を抱える商人たちが逃さなかったとも言えるがな。あの者らが桑名最後の会合衆となろう。公界とはいえ、織田も我ら願証寺も二度と勝手を許すつもりはないのだからな。


 上人も安堵されたことだろう。以前からご自身も花火が見たいと言うておられたからな。


「よくおいでくださりました。某は平手五郎左衛門政秀でございます」


「拙者は滝川義太夫益氏でございまする」


 出迎えは平手殿と滝川義太夫殿か。滝川殿は先日の揖斐北方城攻めで活躍したと噂の者だ。


 鉄砲で敵を蹴散らしたばかりか、戦の後始末もほとんどこの者が差配しておったという久遠家の重臣。


 滝川家は忠義者の八郎殿を筆頭に、久遠家に真っ先に仕官した彦右衛門殿や今弁慶と名高い慶次郎殿と強者揃い、才覚者揃いだからな。そして義太夫殿は両備えであろう。


 護衛としても、これほどの者を寄越してくれるとは有り難い。


「お世話になります」


「熱田は大変混みあっております。そのためご不便をおかけするかもしれませぬが、なにとぞご容赦を」


 総勢二百名以上の僧が連れ立って来た我らを平手殿は歓迎してくれた。


 上人はもとより武家との争いを望んでおられなんだのだ。服部友貞が織田のことを散々悪く言うても聞き流しておったほどだ。


 石山の本山からも一揆は控えるように言われておるし、なにより加賀の混乱に心を痛めておられたからな。祭りで混雑するくらいで怒るはずはない。


「これほどの賑わいが近隣にあるとは思いませんでした」


「一目花火を見ようと諸国から人が集まりましてな。もっとも花火は久遠家秘伝の技。日ノ本広しといえども他国ではそう容易く真似は出来ぬものでございましょう」


 人の賑わいに驚く我らに、平手殿は嬉しそうに事情を話してくれた。明や南蛮の秘術を多く知る久遠家のことは今更だが、織田がいかに強大かがよく分かる。


 今川治部大輔殿が海道一の弓取りと噂されておったのは今や昔のこと。織田弾正忠殿こそが海道一の弓取りと言われるべきかもしれんな。


 ああ、見渡せば幼子から年寄りまで皆が笑顔だ。織田は本気でこの世に極楽浄土を作る気なのか?


 日ノ本すべてがかような地となるならば、寺社が武力にて身を守ることも、一揆など起こすことも必要なくなるのであろうな。


 他国で口にすれば戯言と笑われよう。されどそんな世が来てほしいと願うくらいはよかろうて。




Side:久遠一馬


 今川の太原雪斎が熱田に来たと報告があった。少し予想外だなぁ。慎重な人とのイメージがあっただけに。


「ここで直接見に来るくらいの行動力がなければ、今川は終わりですよ」


 ただ、エルは可能性として予測していたようだ。最近の織田の行動からむやみに害することがないと見抜いているのはあるだろうね。


 今川に対しては、元の世界の歴史を知る身として強大だというイメージがある。


 ただ、実際に駿河と遠江の石高は合わせても太閤検地の時で確か四十万石程度。ほかには三河が三十万石ほどあるが、平地が多く石高の高い矢作川西岸は織田領や一向宗の寺領が多く、それを除外するとそこまで石高は高くない。


 尾張一国で五十七万石ほどだったらしいので、単純に史実換算でも尾張さえ統一すれば織田は今川と対等に戦えるんだ。


 現状の尾張を石高で換算すると百万石は超えていると思う。商いが恐ろしいほど伸びているからね。


 エルの見立てでは織田とウチの表に出してる力で考えても、現状で今川と全面戦争になれば、負けはしないが相応に苦労はするだろうとのことだ。


 尾張から駿河は物理的な距離もある。それに名門今川家の名声は落ちてはいないし、特に戦をして疲弊しているわけでもない。今川義元と太原雪斎は戦も弱くないしね。


 なにより織田は急速に拡大しすぎている。内部崩壊を起こさないか心配になるレベルだ。織田にとっては内部を固める時間が必要なんだ。


 結果として現状でも今川との戦は出来るけど、開戦するのは下策だということだ。


 ただ、少し会ってみたかったな。太原雪斎に。




「ほう。いろいろとあるな」


 この日のお昼はあちこちの屋台の料理を買ったものだ。せっかくのお祭りだしね。屋台の料理を食べないと。


 行動派の信長さんは日頃から領内をあちこち見て歩くし、屋台のものも食べることはあるが、こうしてたくさんの屋台の料理を一度に見ると以前よりバリエーションが増えたのを実感するらしい。


 ちなみに基本的に信長さんは毒見とかしない。毒見をして冷めた料理を食べるのが嫌なんだそうな。オレたちが側にいる時はなんとかなるかもしれないが、ちょっと心配だ。


「醤油が出回り始めましたので、味の幅が一気に広まりましたね」


「あれはいいからな。ないと物足りん。だがそなたのところの醤油と味比あじくらべするとまだまだだな」


 尾張で醸造させていた尾張産の醤油もようやく販売が出来るようになっている。


 現状では地元で小売り販売して反応を試しているところだ。尾張・伊勢・美濃と醤油の需要は近隣だけでも相当あるし、供給はまだまだ追いつかないだろう。


 畿内には現時点では売らない。あくまでも地元優先だ。大湊には多少は卸すし、行商人などが個人的に他国に売りに行くのも規制はしないけどね。


 大口での販売は当分無理だね。尾張の食生活を豊かにすることが先だ。


 最近グルメになってる信長さんは、尾張産醤油の味がまだ物足りないらしい。だけどまだ職人も醤油造りに慣れてないからね。当面はそこまで味が安定はしないだろう。


 青空の下でござに座ってのお昼もいいね。周りには普通に領民がいるし、中にはお酒を飲んで騒いでいる人もいる。


 あまり経験がないだろう箱入り娘の帰蝶さんはちょっとびっくりした表情をしてるが、鷹狩りとか行けば外で食べることは普通にあるからね。


「この焼き飯、美味しゅうございますね」


「どれ、オレにも食わせろ」


 まあ、慣れって凄いと思う。帰蝶さんも普通に食事をしてるし、チャーハンらしき料理を食べた帰蝶さんが美味しいと口にすると、信長さんが一口貰っている。


 当然ながらあーんとはしていないが。


 しかし、こういう場で自然にそんなことが言える関係になったんだな。夫婦仲は良好なようで一安心だ。


 ちなみにチャーハンは八屋で出している料理から広まったものだ。冷えたご飯でも美味しくなるし、調理も複雑じゃないからね。


 難点はこの時代では調理用の油が一般的にはないことだが、実は熱田の商人が最近調理用の油を販売し始めたんだ。


 彼は八屋の常連らしく、八屋の料理に欠かせない食用の油の販売に乗り出している。知らない人じゃないから、ウチからもアドバイスを幾つかしたけどね。


 こうして商いと文化が広がるんだなと実感するね。


「殿、これ美味しいですよ」


「こちらもいかがですか?」


 オレ? オレはエルとセレスに挟まれて仲良く屋台の料理を食べているよ。


 でもさ。ふたりで同時に違うものを勧めるのは止めてほしい。ふたりはオレがどっちを選ぶかを競って楽しんでるらしいが、オレの精神衛生上よくない。


 誰か、助けてほしいなぁ。


 ロボとブランカでもいいけど、無理だよねぇ。







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