第二百七十三話・現れたモノ
side:久遠一馬
冬の風が冷たいこの日、武芸大会の行われた野外競技場では二百余名の新たな警備兵による訓練が行われている。
清洲・津島・熱田から集まった若い男たちで、彼らには訓練と教育を施しながら警備兵として働いてもらうことになる。
警備兵に関しては上手くいっている。オレが関東に行ってる間に津島と熱田が警備兵の導入を信秀さんに願い出て、留守を任せていた資清さんとセレスがうまくやったんだ。
すでに警備兵の数は千名を超えている。
留守中にセレスと資清さんが素早く津島と熱田に警備兵を派遣する代わりに、警備兵を出身の地元とは違う町で働かせる既成事実を作り上げたらしく、人事権をウチで掌握したみたい。
ただ、人事権を掌握した以上は責任もウチに来るんだよね。なので清洲や津島に熱田などでは今も警備兵を追加募集している。
「まだ足りないよね」
「足りませんね。求めているレベルが違うので」
警備兵はこの時代ではあり得ないレベルの治安維持をするための組織になる。随分と増えたけど、エルや直接関わっているジュリア・セレスからすると、まだまだ警備兵の絶対数が足りていないようだ。
治安維持という考え方もオレたちと戦国時代では違う。この時代では自分の身は自分で守るものだ。武士だけでなく、一般的な農民まで武装している。
それと、なにかある度に明らかとなるモラルや常識の違い。清洲なんて遊女屋とかはやくざ者みたいな連中が仕切っていた場所すら普通にあった。
まあ厳密に言えば武士自体が、やくざ者の親玉みたいなものなんだけどね。
治安維持も力で従え。オレに逆らうな、で終わる時代だから。ただオレたちは元の世界の日本とまでは言わなくても、江戸時代の半ばくらいの治安維持はしたい。
ちなみに、清洲のやくざ者は警備兵と揉めた時に、酷いところは信秀さんに許可と根回しを頼んで、すべて潰した。
ここは代々自分たちが仕切ってるんだって主張して警備兵と揉めたんだ。
よくある話だけど、清洲は大和守家時代の既得権やしがらみが、こちらには関係ないから潰しやすい。
おかげで警備兵の仕事はやりやすくなったよ。治安維持は統治の基本だし、清洲のみならず津島や熱田のそんな裏稼業連中も協力的だ。
すべてを排除する気はない。最低限の決めたルールを守ってくれたらいいだけなんだ。
「マフラーは暖かいな。ありがとうね」
ああ、こんな寒い日はエルの手編みのマフラーが暖かくていい。着物って首筋が寒いんだよね。
手編みのマフラーなんて初めてだけど、暖かいし嬉しい。
信長さんも欲しいと言うのであげたら評判になっているけど、マフラーは今のところはエルにしか編めないしエルも暇じゃないからね。
他にはあげられない。さすがに信秀さんには頼まれたからエルが編んでいるけど。
毎日マフラーを身に着けていると、エルも嬉しそうにしていて機嫌もいい気がする。なんとなく態度で分かる。もちろん感謝の気持ちは言葉で伝えるようにしてるけどね。
基本的にエルは不満とか自己主張をほとんどしないからね。気を付けているんだ。
ただ意外に分かりやすい面もあって、機嫌がいいとオレの好物を作ってくれたりする。
「羊もいずれは飼いたいね」
「羊はあまり暑さや湿気に強くないので尾張では向きませんよ。史実でも明治までは飼育された記録はなく、また明治以降も苦労したようですから」
少し話が逸れたが、羊毛は僅かに海外から入ってくるらしいが高価な品らしい。
羊の飼育って北海道のイメージだよなぁ。涼しい山の牧場とか作れない尾張じゃ難しいのか。
中途半端になってもダメだし酪農と馬とか養豚が先だろうな。
その後、エルと共に工業村に立ち寄る。
「こいつはすげえや。オレたちがなにを作っていたのか、やっと分かった」
津島から移住した元鍛冶屋で、今はウチの家臣となった清兵衛さんを筆頭にした、工業村内の鍛冶職人が驚きの声をあげていた。
足踏み式旋盤。史実ではそう言われていた人力の工作機械がようやく完成した。
原理はそう難しいものでもないし、過去の日本にもろくろの技術としてあったのだとか。
しかし一部ではあっても普及した技術にはならず、また応用するような発展はなかなかしないのが歴史らしい。
本当は水車を利用した動力旋盤も考えたんだけどね。水車は工業村では反射炉の増設が優先されて旋盤にまで回せないんだ。
清兵衛さんたちにはこちらの図面を渡して、部品を手作業で作ってもらった。細かいアドバイスはしたけど、なにを作っているのかはお楽しみにしていたんだよね。
現状では高炉の製鉄能力に対して、反射炉の精錬能力も製品に加工する製造能力もまったく追い付いていない。
余った鉄は小笠原諸島に持っていき、地上に降ろした工作艦にて精錬して各地に売っているから儲けにはなっているんだけど。
熱田はその余波で鉄鉱石、コークスを降ろし、粗鉄やスラグを積み出す単なる工業港じみてきている。千秋さんたち熱田衆はどう思っているんだろう。とにかく港の能力が向上しないとどうしようもない。
「殿、お方様。椅子をお持ち致しました!」
職人たちが旋盤に盛り上がる中、わざわざオレとエルに椅子を持ってきてくれたのは猿にはあまり見えない少年だ。
「仕事には慣れたかい?」
「はい!」
ニコニコと笑みを浮かべるこの少年の名前は木下藤吉郎。史実の豊臣秀吉その人。
別にウチで青田買いをしたわけじゃないよ。清兵衛さんの娘さんである伊都さんの従妹が藤吉郎君のお母さんである史実の大政所になるから、清兵衛さんがごく最近になり下働きとして使っているみたい。
数えで十二歳になるが、親戚の清兵衛さんをウチで召し抱えた影響でいつの間にかウチの家臣の小者になっていたんだ。
なんというか運命的というか運がいいというか。
実はオレはあんまり史実の豊臣秀吉は好きじゃない。元の世界で歴史が再評価されるたびに、歴史の真相が暴かれ評価を下げていたこともある。
しかし信長さんや竹千代君と同様に、藤吉郎君もまだ子供でしかない。史実のイメージとはほとんど結び付かない。機転が利くし愛嬌もあるから工業村の職人たちのウケはいいみたいだけどね。
それに別に藤吉郎君が特別じゃない。ウチで雇った人の家族や親戚がウチの下働きをしていたりする。慢性的な人手不足だし、家族や親戚なら信用の有無が事前に分かっているから呼びやすいんだろう。
エルたちと相談して、藤吉郎君は特別扱いも意識もしないことにした。
将来どうなるか分からないけど、オレたちが尾張や織田家を変えてしまったから、史実の豊臣秀吉にはならないだろうしね。
「これを使ってよろしいので?」
「ええ。使ってみてください。量産する前に改良する所があるかもしれませんし」
まあ藤吉郎君の件はいい。話は旋盤だ。一応、史実を参考に使いやすく簡単なものにしたけど、使うのは職人のみんなだ。
量産して工業村で本格導入する前に、この時代の職人のみんなが使えるか試さないと駄目だし、必要なら改良もしないと駄目だ。
足踏み式旋盤の試作品は清兵衛さんに預けることにしよう。
問題がなければ工業村に普及させる。工業村から出すのは頃合いを見計らってかな。人力とはいえ工作機械だし、他国への影響とか見極めないと。
◆◆
足踏み式旋盤機
詳しい年代は明らかになっていないものの、天文二十年前には使用していたことが判明している。
発明者は不明で、欧州やアジアの大陸から学んだものなのか、久遠家が発明したのかも定かではないが、名古屋にあったとされる初期の工業村にて生産・使用されていたとの逸話がある。
そもそも初期の工業村に関しては高炉や反射炉などの機密があり、銅銭の鋳造もしていたことから公式な記録に詳しいことが書かれていない。
足踏み式旋盤も同様で具体的にどういうものだったかは、後に伝わるものから推測するしかない。
とはいえ職人による手工業でものを作っていた時代に量産体制をいち早く整えようとしていたことは確かで、歴史学者の中には中世の時代に尾張だけ産業革命を目指してるようなものだと評する者もいる。
また日本の創意工夫の原点はこの尾張の工業村だと語る歴史学者もいる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます