第二百七十二話・信秀の覚悟

side:久遠一馬


 季節は冬に差し掛かっていて、朝廷に贈る冬の献上品の用意をしている。今回は年越しもあるので乾物を少し多めにする予定みたいだ。


 朝廷からは、信秀さんに山科さんを通じてお礼とかが来ているらしい。伊勢神宮への寄進もあって官位でもという話も来ているようだけど、信秀さんは十分だと断ったようだ。


 確か今の帝は官位目当ての献金を好まないとか歴史にあったような。そんな情報も知っているのかな?


 あと武芸大会の影響も各所に出ている。活躍した人は紙芝居で各地に知らせているし、綱引きや徒競走の盛り上がりも伝えているからね。


 来年は、参加者がもっと増えるだろう。


 関所の限定開放と楽市を一時的にやった影響も現れている。こちらは人と品物の流れがよくなり儲かった人もいたりするし、新しく商売を始めたいと考える人も僅かだがいるらしい。


 ちなみに一部の国人は関所を無税としなかったせいで、近隣の国人や自領の領民の不興を買った。


 結局、近隣の者はそこを迂回せねばならず、また領民は盛り上がったお祭りに自分たちが行けなかったと不満を抱えているみたい。


 まあ信秀さんも知らんぷりしてるから、オレも知らんぷりするけど。




疱瘡ほうそうを防ぐか。そなたたちの医への想念そうねんには驚くばかりよ。真であろうが、また大騒ぎになるな」


 それはさておき、この日は信秀さんに天然痘の予防接種をするために清洲城に来ている。


 事前に説明はしたんだけどね。信秀さんは疑うわけではないが、やはり半信半疑な部分もあるような感じだ。


 織田一族に関しては信秀さん自身がまず予防接種を受けてみて、問題ないと判断したら一族や子供たちにも受けさせるらしい。


 信秀さんや信長さんはともかく、他は見知らぬ予防接種が少し怖いんだろうね。


「当面は希望者だけで精一杯ですよ。すでにウチが新手の商売を始めたと陰口を叩かれていますし、信じない人は放置します」


「そのほうが騒ぎは小さくなるな」


 また騒ぎになると少し呆れられたが、これだけは早めに普及させないとさ。天然痘とか流行ったら大変なんだよね。


 すでに歴史も変わっているし、史実にない伝染病の流行期があっても不思議はない。


 ただ一部ではまたウチが新手の商売を始めたと陰口を叩いている。心外だよね。どうも去年の流行り病でウチが薬を売って大儲けしたと噂になっているのが原因らしい。


 信秀さんとすれば騒ぎの大小は気にしないのか、そんな噂の話をすると少しニヤリと意味深な笑みを浮かべた。


「他国にはその線で噂を流しますか?」


「そのほうがよかろう。畿内が信じて騒げばケティを差し出せと言うてくるぞ? そなたのことだ。公方だろうが朝廷だろうがその気はなかろう」


 あまり評判ばかり上がるのはよろしくない。エルも撹乱する情報を流すと言って忍び衆と準備している。


 信秀さんも同じことを考えたらしいが、話が偶然にも畿内のことになり幕府や朝廷に及ぶと驚かされてしまう。


「ええ。まあ。猶子の件もそこを懸念しています。御迷惑が掛かるのではと……」


「構わぬ。公方や朝廷の命に背いた者など幾らでもおるわ。仮に兵を差し向けられるならば、受けて立つまで」


 そのうち聞かなきゃと思っていた案件を、偶然にも信秀さんから言われるとは思わなかった。


 兵を向けられてでもと語る信秀さんに迷いは見えない。


「そなたもケティたちも日ノ本に必要なのだ。つまらぬ争いで使い潰そうとする輩はわしが叩き潰してくれるわ。そのための猶子なのだ」


 信秀さんに種痘を施しているケティも少し驚きの表情を浮かべている。


 オレを猶子とする覚悟をこれほど強く固めているとは。


 オレも、覚悟は決めていたつもりだった。


 でも戦国時代の世界での覚悟とは、命を懸けた覚悟なんだ。オレの覚悟なんてまだ甘いのかもしれない。




side:湊屋彦四郎


 桑名からの引き抜きはそろそろ終いだな。使えそうな者は粗方引き抜いたし、あとは桑名に愛着のある者やろくでなしだけだ。


 それに何事もほどほどがいい。他所も桑名に目を付けて引き抜きを始めておるからな。揉め事になる前に引くべきだ。


「確かに引き際か」


「はっ。桑名が以前のように活気づくことはありますまい」


 あいにくとこの日は殿がご不在であるが、八郎様はわしの纏めた報告書に目を通すと、桑名から手を引くことを殿に上申してくださることになった。


「さすがは大湊で会合衆までしておっただけのことはある。やはりわしのような土豪とは違うな」


「八郎様の働きも決して軽々しいものではありませぬ。伊勢はおろか堺にも八郎様の名は知られておりまするぞ」


 久遠家の滝川八郎と言えば、本当に伊勢や堺にも名が知られておる。


 特に八郎様の忠節は他家の武士が羨むほどだ。桑名の商人の中には、百貫もの銭を積んで殿への執り成しを頼んだ者もおるが、きっぱりと断ったのは有名な話だ。


 まあ百貫など気にならぬほどの禄を頂いておるのかもしれぬが、それでも目の前に積まれた銭を突き返すのは珍しい。


 忠臣の中の忠臣だと評判だが、当の八郎様はなんとも言えぬ表情をなされておる。


「湊屋殿には理解出来ぬのかもしれぬな。素破と蔑まれ泥にまみれて生きてきた者のことが」 


 武士として名をあげておる現状に、決して喜ぶわけでも浮かれるわけでもない。


 確かにわしは貧しい身代ではなかったので理解出来ぬところもある。されど、周りに安易に惑わされぬのは至誠とも思えるが。


 商人にもおるのだ。突然大儲けをして身を持ち崩す者が。身に過ぎた銭や力を持つと自身の心を腐らせ、周りにはよからぬ者が増えていく。


 今まで威張っておった者に頭を下げられ、自身の立場を勘違いしていく者などを、わしは幾人も見てきたからな。


「すまぬな。つい昔を思い出してしまった」


「いえ。某こそ軽はずみなことを申しました」


 立身出世は人の夢。されどそれを成せる者はごく僅かだ。


 八郎様は自身が立身出世するほどの働きをしたと、自覚が持てぬのかもしれぬな。


 ただ、そのような不器用なところも殿やお方様たちに気に入られておるのだろうが。


「くーん!」


「わふ! わふ!」


「これ、わしは忙しいのだぞ。そなたたちはまったく……」


 そのまま、暫し物思いに耽っておられた八郎様だが、ロボとブランカの二匹がやってくると困ったように相手をしておる。


 殿たちが可愛がっておられる愛犬だが、八郎様も意外と可愛がっておるからな。


 やんちゃ盛りの二匹に振り回されておる八郎様は本当に楽しげだ。


 ここ久遠家に仕官致したのちの日々を思うと、騙し騙される浮き世を離れ、浄土とやらに至る新たな世に来た気になる。


 尾張に来て本当によかった。



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