第二百二十七話・温泉へ入ろう

side:久遠一馬


 翌日には幻庵さんの案内で箱根の温泉に行くことになった。


 ついでといってはなんだが、箱根権現と早雲寺にも参拝する予定で、こちらもみんな喜んでいるね。オレやエルたちは観光気分だけど、他のみんなはリアルに神仏を信じているから目的が違いそうだ。


 小田原から箱根は意外に近い。ただし、この時代の箱根は街道の難所だし、当然ながらそこまで道の整備もされていないけどね。普通に山登りだから当たり前か。


 あっ! 富士山が見える。昔貰ったお土産の絵ハガキとか思い出すなぁ。


「奥方たちは馬に乗るのもお上手ですな」


「ええ。まあ」


 ああ、エルたちはここでも馬に乗っている。みんな尾張でも馬に乗っていたからね。ただ北条家の人からすると、身分のある女性は輿こしかごに乗るもので、やはりエルたちは容姿だけでなく行動も珍しいようだ。


 あからさまにジロジロと見てはいないけど、兵の人たちなんかは物珍しそうに見ている。エルたちは気にしてないようだ。慣れたのだろう。




 箱根湯本に到着すると、オレたちはさっそく早雲寺に来ていた。ここは北条早雲の遺言で創建された寺だったはず。どうも湯本が門前町らしいね。


 なんと言うか、かなり立派で広いお寺だ。極論かもしれないが寺社をきちんと整備するかどうかが、この時代の武士の統治能力を測るひとつのバロメーターなのかもしれない。


「これほど寄進と供物を頂けるとは。ありがとうございまする」


 早雲寺をお参りすると、応対してくれたお坊さんに寄進と供物を納める。寄進は関東では明銭が人気みたいだから明銭で三百貫。供物は伊勢の時より少ないが、長旅なので許してほしい。


 関東と北条家に、織田の力と意思をきちんと見せるには寄進と供物は必要になる。


 というか今夜の宿は早雲寺になるのね。そりゃそうだよなぁ。オレたちはお客さんだし、寺社か城に泊まることになるよね。


 この時代だと下手なところに泊まると、なにをされるか分からないし仕方ないか。


「いかがですかな?」


「いいですね。この辺りも整備すれば、参詣さんけい湯治とうじで人が大勢来ると思いますよ 」


 オレたちがウチの家臣のみんなと宛がわれた部屋で休憩していると幻庵さんがやってきた。


 地形的な理由かあいにくと富士山は見えないが箱根の山はよく見える。温泉もあるし寺社もあるから道を整備すればもっと栄えるようになるはず。


 現状でも臨済宗の禅寺としてはかなりの規模だし凄いんだけどね。


「人を大勢ですか……。武士はあまり考えませぬな」


「土地を治めるのか人を治めるのか。どちらも必要だと思いますけどね」


 箱根は整備すれば観光名所になりそうなんだよね。幻庵さんについ口を滑らせてしまった。


 ただ、幻庵さんには少し不思議そうな顔をされた。人を集めて観光名所にするという概念はあまりないんだろうな。


 そもそもこの時代の旅は危険が付き物だ。山賊や盗賊に海賊ばかりではない。普通の村人もよそ者を殺して荷物を奪うなんて平気でやるらしい。


 もちろん尾張ではそんなことをやらせないように努力しているけどさ。極論を言えば死人に口なし。バレなきゃ問題ないという考えはあると思う。自分たちだけが大事で、よそ者はどうでもよいと考えているのだろうな。


 警備兵の訓練はそんな犯罪捜査もあるからね。苦労している。科学的な捜査までは出来ないけど、論理的な捜査は必要だからね。


 この時代だと捜査というか詮議というか、非論理的な方法で犯人を決めつけるからなぁ。関係者全員から個別に話を聞いて、矛盾点がないかぐらいは調べてほしい。




 なにはともあれ、箱根に来たからには温泉だ。近くにある温泉宿に足を運んでようやく温泉に入れる。


 ただね。エルたちが一緒なのも構わない。夫婦なんだから。気になるのは、侍女の皆さんまで一緒に入ることだ。


 幻庵さんが気を利かせて男性陣とウチの女衆を分けてくれたんだよね。だからこの温泉はウチの女衆だけで使えるんだけどさ。


「せっかくですから侍女たちも入れてやりたいので」


 嫁入り前の娘さんたちと混浴って気が引けるな。普通に考えてオレたちの立場だとお風呂にも人が付くのはさすがに理解するけど。


 ただ、ウチの屋敷だと付かないけどね。お風呂は基本的にエルたちの誰かと一緒だし、水入らずでいいと言ってある。


 今回の場合侍女さんたちは、オレたちより先に入るのもまずいし。後で入って待たせるのもまずいのか。対外的に。


 まあ、侍女さんたちは混浴が当然な時代の子たちなので気にしていない。むしろ温泉に入れてありがたいと喜んでいる。


 もともと侍女さんは側室や妾候補と言えるからなぁ。彼女たちはそっちの覚悟もすでにあって期待している子もいるだろう。


「気にしたら負けだと思う」


 ケティさんや。オレの顔色を見て突っ込むのは止めてほしい。


 うーん、信長さんたちのほうに行けば……。


 いや、あっちもあっちで衆道があるんだった。あっちに行けば別の意味で困るかもしれない。


 ……うん。手を出さない限りはセーフなはずだ。今は温泉を満喫しよう。




 箱根の温泉は小田原攻めの際に秀吉が入ったことでも有名だ。メンバーはエル・ジュリア・ケティ・メルティに千代女さんと資清さんの娘さんのお清さん。他数名。


 オレ以外は全員女性です。うーん。太田さんに旅の記録係を頼んだのが仇となった。オレのことは書かないように頼むか?


 駄目だよなぁ。偽りなく書くのが太田さんの素晴らしさなんだ。オレがそれを汚すわけにはいかない。


 というか、誰も嫌がりも過剰な意識もしてないな。多少恥ずかしげなひとはいるけど。


 えーと。側室にはしないから。変な期待はしないでほしい。


 温泉自体はいいお湯だ。羨ましいなぁ。蟹江の温泉も早く掘らせたいけど、長島からの人足衆に割り当てた工事が一段落しないと温泉掘りを見られるからなぁ。


 見られても問題はなさげだけど見られたくないのが心情だ。まだどうなるか分からないからね。長島も。


「うふふ。いいお湯ね」


「効能もある」


「絵にでも描きたいわね」


 露天風呂だから景色もいい。ジュリアもケティもメルティも初めての本物の温泉に上機嫌だ。観光したり温泉に入ったりとゆっくり出来る時代じゃないからなぁ。せっかくリアルにきたのに。


 ただメルティさんや。この光景を絵にするなんて言うのは冗談でも止めてください。


「凄い……」


「浮いてます……」


 ふと見渡すと、侍女の皆さんはエルの胸を見てがく然としてる。前にも言ったが、この時代だと胸に性的な意味はない。とはいえ自分と違う部分に興味があるのは女の本能みたいなものかね。


「貴女たち。無礼ですよ!」


 そんな侍女の皆さんを千代女さんは一喝した。いつの間にか千代女さんは若い独身の侍女さんたちの纏め役になりつつある。


 もちろん資清さんの奥さんとかはいるし、全体としては彼女たち年配が纏めてるけど。資清さんの娘のお清さんは纏め役に向かないからな。優しいのと、ちょっと天然っぽい子だし。


 ああ、そろそろ彼女たちの嫁ぎ先も本当に決めないとなぁ。この時代だと、ほんの少しでも身分や立場があると、自由恋愛がまずないからな。


 それでもエルに頼んで恋仲になる人は一緒にさせてやりたいと様子を見てるけど。それも簡単じゃないんだよね。


 この時代の常識はもちろんだけど、恋仲になっても別れることも当然あるから。


 問題なのは、リアルに側室か駄目なら妾を期待する子も多いことか。というかほとんどはそれらしい。おかげでなかなか他の人と恋愛関係にならないんだとか。


 そんなことをしなくても粗末に扱わないんだけどね。それがこの時代の常識なんだろう。


 戦国武将だと家族を殺されて側室にさせられるとか普通にあるからな。それと比べればウチが天国なのは理解している。


 正直なところ領地開発や経済政策より、家中の細かい問題の方が悩みの種だよね。


 女性陣はいつの間にか女子校の修学旅行みたいに楽しげな様子だ。お肌の手入れ方法を話したりしている。


 戦国時代の常識とは違うけど、ウチはこれでいい気もするね。オレを肉食獣の目で見ないでくれれば。




◆◆

 『天文関東道中記』には織田一行が箱根に足を運んだことが記されている。


 早雲寺や箱根権現に参拝したようで、温泉で旅の疲れを癒したとある。


 太田自身は北条家の気配りを絶賛しているが、その内容には一馬と奥方たちが信長たちとは別の温泉を貸し切ったことも書かれていた。


 夫婦仲がいいと好意的に見る者もいるが、一馬が女好きだと言われる原因にもなっている。


 ただ、織田家では一馬にまだ子が出来ないことから、奥方たちと一馬が一緒にいる時間を増やしてやろうと配慮していたことがこの前後から幾度も見られる。


 






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