第二百五話・寿桂尼の策

side:今川義元


「長綱め。嫌な時に嫌な動きをするのう」


「北条としては少しでも味方が欲しいところでございますからな」


 別に驚きはない。わしが氏康でも織田と誼を結ぶであろう。


 関東から離れておる尾張ではなにかあっても直接兵は出せまいが、それがいいと言えばそうとも言えよう。お互いに負担なく誼を深められるからの。


 あの男。躍進する織田を自らの目で見極めたいと、わしに堂々と言い切りおったわ。同時に今川と敵対するための訪問ではないとも言うたがな。


「同盟を結ぶと思うか?」


「さて、いかがでございましょう。北条は西に攻める余裕があるとは思えませぬが」


 元々、今川と北条は伊勢宗瑞の頃からの友誼じゃったがな。武田と同盟を結ぶ際に手切れとなった。


 今を思えば悪手であったのやもしれぬな。武田は信濃で勝ったり負けたりしておる。


 懸念は、北条と織田の同盟に今川家として打つ手があまりないことかの。武田とは同盟を結んでおるが、対北条はともかく対織田では役に立たぬ。


 美濃の斎藤は織田と和睦する話があるようじゃし、あの主家殺しの蝮は信用出来ぬ。従って美濃との同盟もない。


「いっそのこと、今川も織田と北条との同盟に加わればよいのでは?」


「母上。なにを言われるか。北条はともかく、斯波や織田とは因縁浅からぬ仲。とても同盟など結べませぬ」


「そうでしょうか。今川・北条・織田で力を合わせれば天下すら見えてくるのでは?」


 悩むわしに思いもよらぬことを言い出したのは母上じゃ。母上も北条と織田の同盟を気にしてか、近頃は話に加わっておったのじゃが。


 まさか、北条と織田の同盟に加われと言い出すとはの。


「天下か……」


「国力は北条が少し上でしょうが敵が多い。織田は商いの力を考えればまだまだ伸びます。両家と力を合わせて西か東に進めば、今川は安泰ではありませぬか」


 我が母ながら、とんでもないことを考えおる。北条の目的は関東における自立。織田はまだ領国を安定させるのが先であろう。


 とはいえ、北条と織田に挟まれし今川が、いずれかを攻めれば北条と織田は手を組むおそれは十分にあるのじゃが。


「雪斎、いかが思う?」


「一考の余地はあるかと思いまする。尾張美濃より東を纏めれば、かつての鎌倉のように天下も夢ではないかと」


 確かに北条と織田と合力出来れば夢ではないか。


 畿内は戦続きで疲弊しておるしの、朝廷や武士や寺社などの勢力が入り乱れて面倒じゃ。頼朝公のように畿内の外に天下を作るのは面白いことではある。


「今までならば成し得ぬことでしょう。明や南蛮の荷や世情に知恵もが、すべて堺で止まりておりましたから。ですが今なら畿内に頼らず自立出来るはずでございます」


 そうじゃ。ただの数合わせの同盟ならば価値はないが、織田は南蛮船を運用して畿内に頼らぬまつりごとを領国にほどこしておる。


 それを使えば、確かに畿内より東で独自に動くことも考えとしてありうるの。


 しかし、それを考えつくとは、我が母ながら女にしておくのは惜しいの。


「ふむ。事は慎重に考えなくてはならぬ。武田がいかに思うかもある。織田の考えももう少し見極めねばならぬからの」


 されど、ならばすぐにでもとはいかぬの。


 現状は幸か不幸か織田との商いは相も変わらず活発じゃ。うつけどもはわしが織田を恐れておるとあらぬ噂をしておるが、互いに利が出ておるのに何故無理にこちらから戦をせねばならぬのじゃ。


 信秀も戦を求める三河の国人衆をなだめておるようじゃしの。


 無論、織田が三河に攻め入る虞はあるが、そうなれば受けて立つまでのことよ。


 それにしても天下か。母上は人の心を掴むのが上手いの。氏康も信秀も天下と聞けば話くらいは聞くはずじゃ。


 畿内の足利を巡る争いに振り回されるのに嫌気がさしておるは、皆同じであろうからの。




side:久遠一馬


「ここが先頃、戦をした場所ですか?」


 当初の予定では二日か三日滞在して、熱田神社や津島神社にお詣りしたら帰るつもりだったらしいが、幻庵さんたちは料理を教わることや講義をすることから滞在期間を延ばすみたい。


 西堂丸君はあれからも、弾正忠家嫡男である信長さんと誼を深める意味で滞在する清洲から那古野に来る。必然的にオレも一緒に応対するので、この日は市江島に連れてきた。


「大殿のお考えから織田では領民を食べさせることを基本としてます。ここでは食べさせるために、まずは検地と人の年齢と性別と人数を調べていますね」


 西堂丸君にウチのやり方だけ見せても役に立たないしね。この時代に合わせた統治に関する手法も見せてあげないと。


 検地は北条家が先にやってるから目新しさはないけどね。人口調査とその使い方はなにかの参考にはなるだろう。


「何故そこまで詳しく調べるので?」


「流行り病や飢饉の時に、どこにどれだけの薬や食べ物が必要か把握するためですよ」


 ただ、この日はお付きの武士が増えた。西堂丸君から話を聞いた幻庵さんが、お付きを増やしたみたいなんだよね。彼らはいろいろと細かいことも聞いてくる。


 市江島では現在も検地が続いている。さすがに一向宗の寺領には手を出してないが、逆に言えば彼らの寺領は飢饉や流行り病になっても織田が助ける義務はない。


 三河の本證寺と同じ扱いになるね。尾張の寺社も大半が同じだ。


 戦の後の炊き出しと服部家が強奪するように集めた兵糧は平等に配ったけど、その後の統治には手を出してない。


「あれは……?」


「ここは輪中ですからね。堤防の補修と強化を細々としてもらっています。報酬を出してますから、それで食いつないでもらう形ですね」


 あと、市江島を囲む堤防の実態も調査した結果、一部は補修と強化が必要と判断したので市江島の領民に報酬を出して賦役をやらせてる。


 西堂丸君たちはその様子も気になるのか注意深く見ているね。ちなみに寺領の領民は対象外になる。報酬を出しても賦役だからね。


 現状では市江島の寺との関係は良好だよ。ただ、こちらの行政サービスが欲しいなら、寺の方からもなにか提供してもらわないとね。


 さすがに徴税権まで寄越せとは言わないが、検地や人口調査に罪人の引き渡しとか飲ませたい条件は幾つかある。


「ここは一向衆が強い土地なのですな」


「領境とも言える地ですから。一向衆に関してはどこも同じですよ。ただ、織田は西は長島に東は三河に一向宗の大きな寺があるので、迂闊なことは出来ませんから」


 西堂丸君はあまりピンと来ないらしいが、お付きの武士は一向衆の強い土地に微妙な表情をした。


 北条も早雲の時代から一向宗を禁止しているからね。元々、北条早雲は畿内で伊勢新九郎の名で幕府に仕えていたらしいし、一向一揆の危険性をよく知ってたんだろう。


 本当に北条は統治が上手いよね。史実の織田信長はその辺りは今一つだったからな。


 ただ、現状の織田が一向宗の禁教なんてしたら、大変なことになるからやりたくても出来ないんだ。史実の三河一向一揆と長島一向一揆が同時に来るなんて悪夢でしかない。


 そもそも市江島って、賦役に銭を投入すると赤字になるんだけどね。一向衆対策と割り切るしかない。


 坊主と領民を少しずつ引き離していかないと。領民を確実に食わせれば、最悪でも史実の規模では一揆は起きないだろう。


「しかし、先頃得た領地をこれほどやすんじて統治できるとは……」


「長島の願証寺とはうまくやっていますからね。近くの蟹江という場所では、願証寺の助力で人足を出してもらって港を造っていますよ」


 北条家の皆さんは一向衆が大人しいことと協力してることに驚いているけど、立ってる者は親でも使わないとね。


 それに今の織田は、北条ほど敵が周りに多くないし、警戒されていないのも大きいかな。古河公方とか関東管領とか幕府の権威と争うのは正直大変だろうね。



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