第八十八話・岩倉の異変

side:織田信安


「だから言うておろう! 弾正忠がこちらの領民を返さぬのならば、一戦交えるのみ!」


「たわけが! 逃げられた己が悪いのであろう! 何故、殿や我らを巻き込むのだ!」


 呆れてものが言えぬとはこのことだな。目の前で大声で罵り合うほど、わしは家臣に軽んじられておるのか?


 事の発端は家臣の領地から、村の領民が丸ごと逃げ出したことだ。


 その者の領地は山間の小さな領地で、あまり米も取れず貧しい。仏と噂の弾正忠殿の領地に行けば、食えるとの噂を信じて村の領民が丸ごと逃げたようだ。


 領民が逃げるなど珍しくない。食えねば田畑を捨てて逃げることもある。濃尾平野のような米の取れる土地でなくば、良うあることなのだ。


 こちらは山や丘陵ばかりの地も多い。大きな戦などなくても食えぬことは珍しくない。さすがに村の領民が丸ごと逃げるのはあまり聞かぬがな。


 されど、好き好んで荒れてもおらぬ村を捨てる者はおらん。よほど思い詰めた結果であろうな。


「それで? なんと言うのだ? 無能で逃げられたから領民を返せと言うのか? 天下に伊勢守家が笑われるわ!」


「領民には勝手に村を離れることを禁じておったのだ! 勝手に村を離れた罪人として裁くために要求して、なにが悪い!」


 他の家臣が怒るのは理解する。逃げた領民を返せなどと恥知らずなことを言う愚か者など要らぬ。だが見方を変えれば、領内や家中に不満が溜まっておるのが根底にある。


 弾正忠殿は飛ぶ鳥を落とす勢いがある。年始の酒宴では見たことがない馳走と金色酒が大量に振る舞われたとか。


 それに引き換え当家は貧しい。昨年は予定していた美濃との戦もなくなり、なにも得られなんだ。


 弾正忠殿が美濃と本格的に戦でもすれば、加勢し乱取りでもして物や人を奪える。それにもし負けるようなことがあれば、こちらにとっては勢力を拡大する好機になるやもしれなかったのだが。


 されど、弾正忠殿は動かぬ。動く必要を認めぬのか、動けぬのかわしには分からぬがな


 冬にあった流行り病の薬は弾正忠殿が相場より安く譲ってくれたが、それすら家臣に僅かに与える分しか買えなんだ。


 つい先年までは成り上がり者と、弾正忠殿を蔑んでおった者もおったのだ。その弾正忠殿が病人に薬や飯を与えて、今や仏と崇められる現状が面白うないのであろう。


 この愚か者も結局は、戦をして奪いたいのであろう。裕福な弾正忠殿の銭や米や人を。


「戦はならん。今、戦をして勝てるか? それに逃げられたはそのほうの落ち度だ。それとも己はわしに恥をかかせたいのか?」


「殿! ではわしに死ねとおおせか!」


「田畑はあるのだ。近隣から田畑がない者を集めればよい。皆もそのくらいは助けてやれ」


 このままではまずいな。伊勢守家は戦をする前に落ちぶれてしまう。


 なにか手はないのか? 弾正忠殿とて、いつまでも上手くいくわけではあるまい。今は耐える時なのだ。


 なにか、なにかないのか?




side:久遠一馬


「丸ごとですか」


 工業村が稼働して、オレはそちらの代官も務めることになったけど、この日は信秀さんに呼ばれてエルとケティと清洲に来ている。


 たいした用件じゃなかったけど、岩倉の領地からひとつの村の領民が丸ごと逃げてきたらしく、先にケティはその人たちの診察を頼まれて、別室で診察している。


「滅多にあることではないのだがな。どこにでも愚か者はいるらしい」


 戦や野盗に村を襲われ流民になる者は少なくないけど、まだある村を捨てて逃げるのは滅多にないらしい。


 理由は流民になれば現状より辛い生活になるから。ただし仏と噂される信秀さんならばと、藁にもすがる思いで逃げ出してきちゃったみたい。


 元々の領主は重税を課していたようで、信秀さんは逃げ出すほど追い詰めたばかりか、気づくことも出来ずに逃げられた領主に呆れている。


「こういう場合、どうするんです?」


「場合によるな。同じ家中なら返すが、領民も愚かではない。返されるような場所にはいかぬよ。岩倉も、まさか返せとは言うまい。恥を晒すようなものだからな 」


 伊勢守家も順調に追い詰められてるな。春になり山菜とか取れる時期も近いのに領民が集団で逃げ出すとは。


「ではウチで面倒を見れば良いので?」


「しばらく那古野で使うてみてればよかろう。賦役ならば土地がなくても暮らしていける」


「確かにそれはいいかもしれませんね」


 信秀さんも自分から岩倉に返す気はないらしい。確か信安さんの正室が信秀さんの妹さんのはずだけど。


 岩倉を正式に臣従させたいのだろう。ここで返すよりは受け入れたほうが岩倉にはダメージになる。


 逃げ出してきた領民がどういう人たちか分からないから一概には言えないけど、流民は基本的に賦役で使ってみている。それが一番いいんだよね。賦役多いし。


「それはそうと、随分と大量に鉄が出来るのだな。聞いてはおったが、現物を見ると驚きだ」


「ええ。ただあの鉄を精錬する反射炉が足りないので、当面は余った鉄はウチの島に持っていき処理します」


「反射炉とやらは、早急に増やさねばならんな。鉄のくわすきはもっと必要だ」


「むしろ鍛冶職人の数のほうが深刻ですね。人を集め育てるように頼んでいますけど、すぐには育ちませんので」


 話は変わるが、高炉が稼働して鉄の生産が始まると、その生産量に信秀さんや重臣ばかりか、教えている製鉄職人ですら驚いてる。


 ただ、鍛冶職人がいないとなにも作れないんだけどね。


 津島の鍛冶屋の清兵衛さんには、頼んで工業村に移住してもらった。この人は史実の加藤清正のお爺ちゃんなんだけど、以前から鉄の農具とか作ってもらっている人だ。


 清兵衛さんには大勢の鍛冶職人志願者たちを指導してもらう。


 この時代は一子相伝とか少数の弟子に教えるのが普通だし、大勢の弟子を抱えることに、清兵衛さんも戸惑っていたけどね。


 ぶっちゃけプライドが高くて、農具なんか作らんなんて職人も珍しくないからね。腕も確かで融通が利く清兵衛さんは貴重な人だ。


 ちなみに清兵衛さんは、スカウトしてウチの家臣になってもらった。別に清正を狙ってるわけじゃないよ。ただ優秀な人だし相応の報酬を払うことにしたら、家臣にしたらいいと周りから言われたんだ。


「他に粗銅からの金銀の抽出も始まりましたし、銭の鋳造も始まりました。利益になるのは早いですよ」


 岩倉の逃げられた人、どうしてるかな?


 泣いてるか怒ってるか、それとも気にもしてないか。悪いけどこっちは、岩倉の相手してるほど暇じゃないんだよね。


 あとは相手方しだいだ。




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