第三十七話・歴史の闇
side:久遠一馬
織田弾正忠家の家中に不穏な空気が流れてから、一週間ほどが過ぎていた。この日はウチの津島の屋敷に、信長さんと政秀さんに大橋さんが集まっている。
事実上の信長派の面々なんだけど、那古野で集まると目立つので津島になった。商いとか那古野の賦役の関係で、政秀さんや大橋さんがウチによく出入りしてることが、理由と言えば理由だろう。
「そろそろ暴発しそうだとは思いましたけど」
ここ数日、こちらは商人と信長さんの悪友の皆さんや滝川一族を使って、林兄弟の監視と情報収集をしていた。
情報収集と言うならば尾張に限れば、ほぼ筒抜けと言えるほどの情報網になる。ちなみに情報網を構築するための人の配置と、情報の共有にエルが少し口を挟んでいたけど。
「これはヒ素という毒薬。日ノ本では銀毒とか
ケティの鑑定にみんなが息を飲んだ。
ウチで一番の広い部屋には、信長さん、政秀さん、大橋さんと、オレたちと資清さんたちや信長さんの小姓や悪友もいる。温かい麦茶と羊羮を食べながらだけど、事実上の評定になるのかね?
「ケティが狙われると思うたのだがな」
「さすがに兵二十人も付ければ、迂闊には動けますまい」
信秀さんはこの件を信長さんに解決しろと言ったようで、信長さんを中心に信頼出来るこのメンバーで対策を講じていたんだ。
最初に狙われそうなケティは、往診の際の護衛を二十人に大幅増員して対応した。実はオレとエルはケティの往診を囮にする策も考えていたけど、信長さんはそれを認めなかった。
女を囮にするのは嫌だったらしい。
そんな中で津島や熱田に出入りする尾張領外の商人を見張っていたら、その中のひとりが林通具の家臣に怪しげな薬を売っていた。すぐにその商人を捕まえて荷物を調べたら、案の定、毒物があったわけだ。
まあ漢方薬にもなるらしいので、薬として売ったらしいんだけど。この状況だとクロだよね。
「ひとつ疑問なのですが、林様はどうやってこの件を収めるつもりなんでしょうね? ここまで勝手なことをして、殿がお許しになるとは思えませんが」
「まさか、狙いは親父だというのか?」
「邪魔だと言うのならば私と若様もでしょうけどね。誰を先に始末するべきかと考えるのなら……」
兄の林秀貞さんは一切動いていない。ところが弟の林通具さんは人を使って、ウチの屋敷やオレたちの外出する際の護衛の数などを調べている。隙があるか探してるんだろう。
他にも親しい家中の者に声をかけてるようで、武具と米を密かに集めてもいる。
まあ極秘のうちに準備しているつもりでも、尾張の品物の流れは津島や熱田ならば分かることだ。そこまで考えが及ばない時点で、彼の力量の程は知れている。
正直なところ林通具さんは、史実の正確な情報が少なくて予測が難しいけど。あまり頭のいい人でないのは、最近の調査で明らかだ。
史実の信秀さんが毒殺されたかなんて分からないけど、この時代の林通具さんを調べると、やりかねないと言うのがエルたちの結論になる。
忠義もなくモラルもない時代だしね。信秀さんを毒殺したあとは信行君を御輿にして、織田弾正忠家のためという名目で権力を握ろうとしていると考えると、一応は筋が通る。
この時代に来て理解したけど、ほんとやったもん勝ちなんだよね。
「爺。親父は?」
「もちろん、そのことは承知しておられます」
「さっさと討つべきか?」
「出来れば家中が納得する、証拠が欲しゅうございますな」
毒殺という防ぐのが難しい問題に、信長さんは一気に決着をつけるべきかと悩み始めた。政秀さんも大橋さんもそれを否定しなかったけど、後々のことを考えると政秀さんの言う通りに明確な証拠が欲しいのが本音だ。
まあこの時代では証拠なんて、有っても無くてもあまり影響はない。明確な法治国家でもない時代だしね。
ここまで疑惑があり殿様が認めたのならば、討ったところで問題にはならないだろう。史実でも酒に酔って家臣を切腹させた人もいるけど、別に責任取ったわけでもないみたいだし。
ただ尾張と織田弾正忠家で問題なのは、支配や統治体制が曖昧で緩いということだ。
信秀さんの力には従うが、完全に従属してるわけでもない。なので史実の織田信長みたいに、一歩間違うと周りが敵だらけになる。
「暴発させるなら出来ると思いますけど」
「いかがするのだ?」
「林様謀叛の噂を流すのはどうでしょう? 殿と若様の暗殺を企んでるとか。あまり頭の良さそうな御方ではないようですし、それで暴発するのでは?」
「確かにそれならば、暴発するかもしれませんな」
要は相手に手を出させればいいんだよね? なら噂を流すのが一番だと思うんだが。真実に多少の脚色した嘘を交えて少し大袈裟な噂を流せば、引っ掛かるんじゃないかな。
「美作守様の身辺の人に対する、密偵の配置を増やしたほうがよろしいかと思います。清洲辺りに手紙を出さぬとも限りませんから」
「よし。お前たちは噂を流してこい。エル。人の配置はそなたに任せる」
最終的に信長さんは林通具を挑発することに決めた。
噂を流すのは信長さんの悪友の皆さんだけど、すでに商人や一部の国人は知っている話だからね。大々的に噂を広めちゃうだけだ。
それよりも密偵の配置をエルに任せちゃっていいの? 確かにバラバラだった信長さんの悪友と、商人の情報網を最低限だけど相互に協力できる形にしたのはエルだけどさ。
この辺りの決断の早さは大器を感じさせるね。政秀さんは忙しいということもあるし、相手に警戒されてるからね。動かす人を隠すことで、相手に気付かれにくくする効果もありそうだけど。
「なにを考えてるんですかね?」
噂の効果はすぐに現れた。僅か三日後には林通具さんが尾張の下四郡守護代である清洲の織田信友に宛てた、信秀さんを毒殺するから後ろ楯になってほしいと出した密書を手に入れた。
正直ここまで上手くいくとは思わなかった。林通具さんは馬鹿なんだろうか?
「昨日美作守を信行の守役から外した。最早後戻り出来ぬと思うたのであろう」
この日は証拠となる密書を手に入れたことから、またみんなで集まって話し合いをすることにしたけど。今日はウチの屋敷にて信秀さんも話し合いに参加している。
「あの、殿。話をするなら城で良かったのでは?」
「城で話などして、毒を盛られたら敵わぬからな」
今日はお付きの人がやけに多いし、警戒していることは確かだろう。
ただね。柴田勝家さんなんか茶菓子に出した大福をばくばくと食べてむせてるしさ。それもう六個目だよ。
毒殺を警戒してるのに、ウチの茶菓子は毒味もしないだなんて。信頼されているのか、警戒する必要がないと合理的に判断してるのか。
「同調する者は、ほぼおりませんな。新五郎殿は我関せずと無関係を決め込んでおりますし」
まあ信秀さんのことはともかく、林通具さんは味方もほぼいないらしいし、兄の林秀貞さんですら味方をしていない。こちらは信秀さんに知らせもしてないから、本当に知らぬ存ぜぬで通す気なのかな?
史実みたいに信秀さんが亡くなって、信長さんが位牌に灰を投げたりしてなきゃ味方は増えないよね。美濃攻めがなくなったから、信秀さんも大敗していないしさ。
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