第十七話・信秀最大の敗北の消失

side:織田信秀


「殿。本当に美濃攻めを止めるので?」


「無理に稲葉山を攻める必要もあるまい」


 月が変わる九月には美濃攻めをする手筈がほぼ整っておったのだが、わしが美濃攻めを止めると言うと皆が驚き戸惑うておるわ。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」


「今攻めれば、美濃はまむしのもとに纏まってしまうかもしれぬからな」


 状況が変われば戦も変わる。一馬がいろいろとやろうとしておるのに、無理に戦をするのは下策よ。


「しかし美濃守様がなんと言われるか」


「大垣は死守する。そのうち潮目も変わるであろう」


 家臣の大半は戸惑うておるが、五郎左衛門と重長は理解しておる様子。ふたりは一馬のことを知っておるからな。


 一馬の力とやろうとしておることを、見極めるまでは動けぬ。蝮を牽制する程度には動くがな。


 此度の戦は清洲と岩倉も出る手筈であったが、向こうはいかがするか。いずれにしてもこちらは動かんがな。




「殿。やはり美濃攻めを止めるのは一馬殿が理由で?」


「他にはあるまい。先年の負けを取り返したかったが、稲葉山はそう簡単には落ちん。それよりわしは、三郎と一馬がなにを成すのか見たいのだ」


 家臣たちは必ずしも納得したようではないが、黙らせて評定を終えた。五郎左衛門と重長を別に呼んだがふたりも理解はしているが、驚きはあるようだな。


「見よ。この美しき金色酒を。これひとつですら、いかほどの価値があるか。そなたらならば分かるであろう?」


 一馬は蜂蜜酒と呼んでいた。元々は南蛮にある蜂蜜から作る酒らしい。


 直に尾張の内外に売り出すと言うので、わしはこれを金色酒とするように命じた。あの男は有能だが、少し素直過ぎるのが欠点だな。


 名などなんでもよいが、蜂蜜酒と言うてしまえば他でも造り始めるかも知れぬからな。いつかは広がるであろうが、少しでも遅らせたい。


「確かに。今は動かず見守るのがよろしいかと」


「一馬は言うていた。数年で織田弾正忠家の力を数倍にしたいと。重長、どう思う?」


「不可能ではございませぬ。というより数倍以上になるやもしれぬと、某は思いまする」


 銅から金と銀も出たというし、一馬は鉄を作る施設も一緒に作る気なのだ。戦などせずに、そちらに人と銭を使いたい。


 それに今川も手強い。仮に蝮に勝ち美濃を手に入れても、朝倉や六角と相対するのは少し厳しい故な。


 今は美濃をひとつに纏めぬようにしながら時を稼ぎたいのだ。




side:久遠一馬


「美濃攻めがなくなった?」


 町に出ていたジュリアが持ち帰った話にさすがに驚いた。少し前から那古野では美濃攻めの噂で持ちきりだった。それが突然なくなって戸惑っているらしい。


「はい。史実の加納口の戦いになるはずの戦です。歴史では天文十三年と天文十六年の二説ありましたが、どうやら天文十三年にも戦はあったようなので、戦は二度あったのが本来の歴史のようです」


「まさか戦を止めるとは……」


「恐らく私たちの影響です。現状では無理に戦をしないで、状況を見守るつもりなのだと思われます」


 エルが理由を推測する。理屈では理解出来るけど、戦というのは根回しから始まり支度がいる。突然止めるというのは珍しいはずだ。


 そもそも今回の戦は信秀さん最大の敗北とも言える加納口の戦いになる戦のはずが、突如戦を止めると言い出したらしい。


 オレたちも戦に出ないといけないから、支度とか負けないように策も考えていたんだよね。


「うーん」


「冷静な判断だと思います。調べたところ美濃は土岐氏と、後の斎藤道三氏の対立などで混乱しています。攻めるには好機ですが。私たちを信じるならば、いたずらに戦線を拡大する時期ではありませんから」


「美濃との同盟がなくなるとどうなるんだろう」


「美濃との同盟は別の理由で進めるべきでしょう。大垣城の扱いが難しいですが、斎藤氏も尾張との和睦と同盟は欲してるはずですから」


 オレたちって思った以上に信頼されているのか? ただ、この戦の敗北は、史実では道三の娘である濃姫と信長さんの結婚に繋がるはずなんだよな。


「意外に広いね」


「大雑把な勢力図ですが、東は三河安祥城に西は美濃の大垣城まであります。しかし清洲は名目上の主家ですが、力関係は逆転しておりますので潜在的な敵対勢力となりえます」


 その後オレはこの時代の地図を見ながら、エルから改めて現在の情勢の話を聞いていた。


 はっきり言えば現在の織田弾正忠家の状況は、複雑怪奇とでも言いたくなるほどややこしい。


 尾張の名目上のナンバーワンには守護の斯波義統さんって人がいて、守護代という名目上のナンバーツーは尾張の北半分の岩倉織田家がいて、南半分に清洲織田家がいる。


 織田弾正忠家はナンバーツーの部下でしかなく、ナンバースリーとも言えない地位にある。あくまでも名目上だが。


 実質的な実力は弾正忠家が尾張のナンバーワンとも言えるけど、信秀さん自身は旧来の秩序や在り方を否定まではしていない。特に清洲織田家は目の上のたんこぶみたいな存在だけど、滅ぼしたりしてないしね。


 史実では信秀さんが遺した織田弾正忠家は信長さんの力になったけど、負の遺産もまあ結構あった。信秀さんには臣従していた人たちが、信長さんにはそっぽ向いたからね。まあ原因は史実の信長さんにもあったと思うけど。


「正直なところ美濃や三河よりも、尾張を先に固めたいところです。この時代は特に珍しくありませんが、尾張も主従関係は元より命令系統も曖昧ですから。ですが戦国大名として戦っていくならば、少なくとも領国内に敵対勢力を抱えたままというのは、よろしくありません」


 三河安祥城は今川に負けて失って、大垣城も確か道三に取り返されるんだよね。大垣城は今一つ詳しい情報がないけど。


 史実の信長さんはそれに加えて、織田弾正忠家の家臣筋にまで反旗を翻されたのだから、よくまあ天下目前まで行ったよね。


「やっぱり経済面から、やるしかないかな?」


「そうですね。津島と大橋様は味方でしょう。後は熱田を味方に引き込み、那古野と津島と熱田を固めるのがいいかと」


 現状だと信長さんは清洲三奉行家の後継者でしかないから、身内相手に戦うわけにもいかない。それよりオレたちが中心となり力を付けてもらうほうが早いね。


 そもそも信秀さんが史実同様に亡くなるかなんて、分からないわけだし。オレたちの医療技術があれば、よほど突然死でない限りは死期は変わるはず。


 経済面から尾張を支配して技術革新で力を付けていけば、史実ほど悲惨な状況にはならないだろう。


 史実の信長さんが家督を継いだ直後の兵の数は八百というから、ほとんどが日和見してたんだろうね。そりゃ家臣に厳しくもなるし冷たくもなるわ。


 信じたところで、いつ裏切られるか分からないんだもんね。


 まあ先の心配ばかりしても仕方ないか。今はやれるこをひとつずつやっていかないと駄目だ。


「あの人たちには衛生指導も必要」


「ああ、そうか。戦にも酒造りにも衛生指導が必要か」


 やることが山積みだなとため息をこぼすと、ケティが少し顔をしかめて衛生問題を口にした。


 信長さんに従う若い皆さんを、酒造りとか牧場とかで使うのはいいんだけど、基礎的な教育はしたいよね。特にお風呂もない時代だし、衛生観念もないので汚い人がそれなりにいる。


 ケティは衛生指導をする気みたいだし、大橋さんと津島の人たちも話を聞いてくれるかな?


 ただ信長さんや仲間の皆さんと、他の織田弾正忠家の家臣の皆さんとの間にあんまり壁を作ると、史実の二の舞になるしなぁ。


 味方に出来る人は味方にしたほうが無難だよね。史実の信長さんよりはソフト路線で行くように、さりげなく軌道修正してもらわないと。


 加納口の戦いがなくなった影響は、とりあえず考えないようにしよう。


 情勢が固まるまではやれることを優先しないといけない。



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