第四章:雪渓のトンネル(6年前)

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 北アルプスのとある渓を、僕は富山側から攻めていた。水量はさほど多くは無いが、巨岩が多く落差が有るダイナミックな渓相を、僕はいたく気に入った。こういった流れは、主に岩魚の生息域と思われたが、その川ではかなり標高を上げた辺りまで、アマゴと岩魚の共棲域が続いていた。

 東日本では山女魚が住むような流れに、西日本ではアマゴが生息している。この両者、見た目は非常に似ているが ──事実、生物学上はアマゴは山女魚の亜種という扱いである── 山女魚に朱点を散りばめたような姿のアマゴの方が、より「渓流の宝石」と呼ぶにふさわしいのではないかと僕は思っている。

 漢字で書くと雨子、雨魚、甘子、天魚などと様々な表現法が有るが、どれもしっくり来ないと思うのは僕だけだろうか? もし、僕に命名権が有るならば、「雨女魚と書いてアマゴと読む」かな。


 呑気な岩魚はそこそこ釣れたが、僕は美しい魚体が見たくて雨女魚アマゴの好みそうなポイントばかりを攻めていた。性格的には山女魚も雨女魚も同じで、元々、神経質で警戒心が強い魚ではあるのだが、その日は特に雨女魚のご機嫌が悪く、僕の毛鉤にはたまにしか反応してくれない。

 仕方なく僕は朝から、水に浮く毛鉤ではなく、沈めて使う毛鉤を多用していたわけだが、それもそのはず。手を突っ込んでみると、その川の水は思ったより冷たいではないか。おそらく、もっと上流に行けば、まだかなりの残雪が有るに違いない。春になって気温が上がり始めてるとは言え、雪解け水の流れ込む渓は予想以上に水温が下がり、魚たちの活性は落ちてしまうのだ。

 まぁ、釣りたいわけではないし、釣れなければ釣れないで構わない。我先にと川に入って、釣れた魚は根こそぎ持ち帰ってしまうような、幼稚な釣り師ではないと自負もしている。僕は構わず雨女魚に狙いを絞った釣りを続け、その川を少しずつ遡行していった。


 背中に背負ったミレーのザックの脇には、木工細工の得意な友人の手によるハンドメイドのネットがぶら下がっている。僕ら釣り師の間では、たも網とかランディングネットと呼ばれるやつだ。さすがにロッドの自作は難しく専用工具などを必要とするが、ネットであれば日曜大工的に制作することが可能なのである。

 ニスの艶やかな塗装が施されたフレームは、檜薄板を重ねたラミネート構造によって、複雑な木目も鮮やかだが、それを美しい工芸品の域にまで高めているのは、何と言ってもグリップ部分に埋め込まれたヤマセミであろう。

 それはインレイと呼ばれる螺鈿らでん細工で、光沢を放つ貝殻の内側を埋め込む装飾技法のひとつだ。使用される貝は白蝶貝、黒蝶貝、青貝、夜光貝などで、アワビやアコヤガイが使われることも有る。主に漆器などに用いられる伝統工芸であるが、音楽好きであればギターの装飾にも使われていることを知っているだろう。

 僕の友人がこのネットに施したヤマセミは、シルエットだけを模ったシンプルなものであったが、木目に浮かぶ白蝶貝のワンポイントが、それを使う者に充足感を与えるものだ。このネットを使って魚をすくい上げる度に僕は、制作者である友人の面影も一緒にすくい上げているような気分になるのだった。



 暫く釣り登ってゆくと、突然、傾斜の緩やかな流域に出た。鬱蒼とした緑の山肌に挟まれた渓谷を貫く流れは、それまでの小滝が連続する険しいものとは異なり、緩やかに、そして静かに流れていた。こういった劇的な渓相変化も、山岳渓流の醍醐味の一つだろう。滝を越える度に、ゴルジュ(両側の岩壁が迫る峡谷)を越える度に、或いは流れが屈折する角を曲がる度に、川はその姿を刻々と変える。一つの川を遡行していても、全く同じ風景に出会うことなど決して無いのだ。


 僕は静かな流れを見渡せる山毛欅ブナの大木の陰へと移動し、急斜面を登り続けてかいた汗を乾かすため、背中のザックをドサリと降ろす。地面に張り出したひときわ大きな根の一本に腰を下ろすと、ザックのトップポケットに忍ばせたペットボトルを取り出し、ゆっくりと時間を掛けて喉を潤した。

 見上げれば、両側の稜線によって切り取られた空が、まるで地上の川を映す鏡のように彼方の源頭(谷の最上流部)に向かって伸びている。そこを、途切れ途切れの雲がノンビリと東へ向かって横切っていった。今朝、入渓する前にゴルフのカーオーディオで聞いた天気予報の通り、暫くは晴天が続きそうだ。僕はそう思って、ザックに仕込んだテントやシュラフなどの装備を、頭の中で再確認した。

 そう、僕はこの谷で一泊するつもりだった。国土地理院の地形図で確認した限り ──かつての僕は地形図など読めもしなかったのだが、こんな浮草のような釣り師生活を続けているうちに、次第にそれを読み込めるようになっていた── この川は日帰りで攻め切れるほどの、小規模河川ではないと判断したからだ。だから時間はたっぷり有る。少なくとも今日は、帰りの行程の所要時間を気にする必要は無いのだ。

 僕は眼前に続くなだらかな流れの先に思いを馳せて、もう一度ペットボトルを傾けた。

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