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その日の夕食は気の利いた田舎蕎麦だった。太さや長さが不揃いの麺は、それが手打ちであることを示しており、美月の手間暇がかかった一品なのであろう。時期的には新蕎麦の季節ではなかったが、口に含んだ瞬間に鼻に抜ける独特の香りは、挽きたての蕎麦粉によって打たれたものであることを窺わせた。更に、噛み締めた際にホンノリとした苦味を感じるそれは、粗めに挽かれた麺の所々に蕎麦殻が黒い斑点となって残る素朴なやつだ。
その隣に添えられた天婦羅は「山菜の王様」タラの芽で、通常では考えられない量が
元来、「山菜なんて決して旨いものじゃない」とか「貧しい地方の生活の知恵でしょ」みたいな印象しか持っていなかった僕は、昨日今日と、美月の手による心尽くしの山菜料理を食べて、それが偏見であることを知った。この月井内に来て初めて「あぁ、山菜って旨いものなんだ」と知ったのはお恥ずかしい限りである。
というような懺悔話をしながら、今夜も美月と二人で食後の差し飲みだ。お供は僕が持ち込んだ山崎でこしらえた水割りである。
グラスの中の氷をカランと鳴らしながら、美月が聞いた。
「釣りの方はどうでした? 結局、雨は上がりませんでしたね」と、一口含む。
笊の上にまだ大量に残る天婦羅を小皿に取り分け、それを「美月さんも食べて下さい。僕一人ではとても食べ切れませんし・・・」と差し出してから、僕は応えた。
「えぇ。午前中は、結構、良い釣りが出来ましたよ。中々良いサイズがそこそこ。雨もそれほど酷くはありませんでしたしね」
そう言って、まだ小雨が降り続く窓の外に視線を向けると、軒で集められた雫が部屋の灯りを反射して、キラリ・・・ キラリ・・・ と光の線を幾筋も残しながら落ちていた。
「午後はダメでしたか?」
「いえ。午後は温泉で汗を流してから部屋に戻って、さっきまでゴロゴロしながら本を読んでました」
「あら」美月は意外そうな顔で、天婦羅の上から食卓塩を振る手を止めた。「そう言えば、釣りの靴が玄関に有りましたね。午前中で満足しちゃったんですか?」
「えぇ、まぁ・・・」
本当はそうではない。川で彼女の弟を見た時、僕は彼に自分を投影してしまって、自身の不甲斐無さを客観視したというか、落伍者たる自分を再認識してしまったのだ。アルバイトを辞めて浮草のような生活を始めて以降、時折訪れる自分自身への問い掛けが、あの時、再び僕を虜にして、釣りを続ける気を萎えさせてしまっただけなのだ。
マイナスイオンだかフィトンチッドだか知らないが、大自然の懐に抱かれつつ生気のようなものを充電しているはずなのに、今日の様な日はそういった貯金が一気に底をついて、またしても泥のような気分に浸ってしまう。いやむしろ、ヘドロの様に停滞する精神状態を奮い立たせるために、僕は川に行くしかないのかもしれない。
「どうしました?」
彼女の甘美な声が、僕を現実に引き戻した。
「あっ、いえ・・・ そう言えば対岸の山肌に、墓石と言うか墓地のような一角が見えたんですが」
今度は、それを聞いた彼女の顔にほんの少しだけ暗い影が差す。
「あぁ、あれですか・・・」
僕は彼女の答えを待った。
「えぇ、あれはこの村に昔から伝わる墓地です。今は使われていないと思いますが・・・」
「そうなんですか? 遠くから見ただけなんで、良くは判らなかったですけど、なんだか新しそうな石も有ったみたいでしたよ?」
「どうなんでしょう・・・」彼女は視線を逸らすように首を傾げた。
何だろう? 彼女の雰囲気が変わった。聞いてはいけないことなのだろうか? この村に伝わる、何かタブーのようなものなのだろうか? 長い間、あちこちを旅してきた僕は、過去に訪れた村で触れた、似たような経験を思い出していた。
*****
確か北陸地方の山村に行った時のことだったと思う。事前にその村のことを調べていた僕は、昭和の中期頃まで、かの地では夜這いの風習が根付いていたと知って驚愕したことが有る。いわゆる「夜這いの里」と言われるやつだ。昭和中期と言えば高度成長期である。まさに戦後復興が急ピッチで進む時代の日本に、夜這いというフリーセックスの慣習が残存していたという事実を信じられるだろうか。
とは言え、寂れた山間に住む若い男女が結婚前に結ばれる、或いは性欲を満たす機会は、そういった風習が無ければ成り立たないというのは理解できる。むしろ近代国家に生まれ変わろうとしている中、その時世に取り残されたかのような山村では、旧来の習慣が色濃く伝承されていたとしても不思議ではないだろう。その裏には、交通の便も悪く、山を下りた先の麓の村からいわれの無い差別を受けて、そうせざるを得なかったという事情も隠されているような気もした。
元来、日本人は性に対してオープンな民族だったと言うではないか。夜這いだけでなく、いわゆる乱交までもが、地方によっては普通に行われていたという。それが仏教の伸張によって禁欲的な生活を美徳とする価値観に侵略され、本来の奔放な姿は影を潜めた。その結果、あのような現世から隔絶した山村に、細々とその系統を紡ぎ続けるにとどまっていると考えるのは
その地で一泊した僕は、民宿で朝食を採っている際に、給仕してくれていた老婆との世間話でつい、夜這いの伝統について触れてしまったのだった。すると老婆の顔が一変した。農作業で日に焼けて表情の変化に乏しい彼女の顔に、明らかな狼狽とも恐怖とも、或いは怒りともとれる色が差したことを僕は感じた。
その時、朝食に添えられた割り箸の包み紙に、次のような文字が印刷されているのを僕は見たのだ。
よんべの這い あわてた這い
どみそけにつまずいて 塩から桶とびこんだ
明らかに夜這いの唄であった。老婆はそうとは気づかず、この割り箸を客に出し続けているのだろう。その後、食事を終えて宿を発つまでの間、気まずい雰囲気が二人の間を満たし続けた。
*****
あの時のようなタブーに触れてしまったのかもしれない。あの対岸の、急峻な土手に張り付く墓地は、部外者が迂闊に手を触れてはいけない物なのかもしれない。
「織田さん、明日はどうされます?」
故意に話題を変えるような、彼女の明るい声が響いた。
「えっ? 明日・・・ ですか?」
「はい。予定では明日がチェックアウトですが・・・」彼女はニコリと微笑んだ。
その笑顔につられるように、僕は深く考えることも無く即答した。まるで目の前に流れてきた毛鉤に、本能的に反応してしまった渓魚のように。
「延長します」
部屋に引き上げた僕は、例によって美月と共有した時間を反芻していた。部屋の照明を落とし、布団の上で仰向けに寝転がったまま、頭の後ろで腕を組む。僕の脳をユサユサと弄ぶウィスキーの酔いを醒ますため、部屋の窓は全開だ。
(どうして「延長する」なんて言ってしまったのだ?)
(そんなこと決まっているだろ。彼女がいるからじゃないか)
(彼女がいるから何だと言うんだ? 花束を持ってプロポーズでもするつもりか?)
軒から落ちる雫が何処かで跳ねて、トン・・・ トン・・・ と規則正しいリズムを刻んでいた。開け放たれた窓から、音も無くスルリと忍び込んでくる冷気が、部屋を満たすように低い所に溜まる。その冷気の中に横たわる僕の姿はまるで、川底に沈む水死体のように違いない。
(そんなつもりは無い。ただ・・・)
(ただ?)
(もう少し、彼女と一緒にいたいだけなんだ)
ただ、もう少し彼女と一緒にいたい。その気持ちに嘘は無かった。たまたま、昔訪れた北陸の村での出来事を思い出して、何となく妙な気分になっているだけなんだ。別に深い意味など無い。
その時、民宿の玄関がカラカラと遠慮がちな音を立てて開くのが聞こえた。
(こんな時間に?)
僕は何かに突き動かされるように飛び起きて、開いた窓から顔を覗かせる。
そぼ降る雨をついて、美月の赤い傘が街灯の下を横切った。
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