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僕に残されていたのは、労働条件としては好ましくは無い不本意なバイトだけであった。日雇いの肉体労働なら実入りは良かったが、やはり身体には堪える。体力には自信が有ったが、それでも徐々に無理が効かなくなってきていることは感じていた。
そこで、たまには楽をしようと道路工事の車両誘導係などにも携わったが、さすがに30歳では若過ぎるらしく、面接会場で居合わせた老人に「年寄りの仕事を奪う気か!」などと文句を言われたことも有る。仕方なく僕は、高齢者のエントリーが少ない深夜のコンビニ店員を専門にして、なんとか食い繋ぐ生活を続けた。
冬の那須塩原は氷点下にまで冷え込む。そんな深夜勤明けの早朝、自宅であるアパートに向かって自転車を漕いでいる時のことだ。白い息を吐きながら、その凍て付いた空気を切り裂くように自転車で走っていると、ふと見上げた視線の中にオレンジ色に輝く那須岳の雄姿が飛び込んで来た。
これまで日の出が遅く、バイト明けの帰宅時には暗く沈んだ稜線がかすかに見えるだけだったのが、春に向かうにつれ日が長くなり、朝焼けに照らされる那須岳が見られるタイミングになって来たのだった。
那須岳はたいして高い山ではない。しかし、頂付近に雪化粧を施したそれが朝日に照らされ、その裾野までを朱色に染めた姿は美しかった。ゆったりとした傾斜に広がる別荘地の家々や、森を突き破って顔を覗かせる遊園地の観覧車も、全てが単色の光を浴びて染まっている。ペダルを漕ぐ足を止めて、しばし呆然とその光景に見入っていた僕は、長らく忘れていたある思いを取り戻していた。
(また釣りに行きたいな・・・)
そう。僕は七代に住んでいた子供の頃から、川釣りに親しんでいた。東京の会社に就職した後だって、同じ趣味の同僚を見つけ、北関東や東北の山々に分け入っては渓流釣りを愉しんでいたのだ。バイトに明け暮れる雑多な日常の底に沈んだ記憶の糸を手繰ってみれば、今、目の前に鎮座する那須岳周辺の川でも釣ったことが有るではないか。
ところが退職を機に生きることで精一杯となり、そういった趣味を持ち合わせていたことすら忘れていた。大宮の会社が倒産した際、身軽になるために全ての娯楽道具を七代の実家に送ってしまったため、釣りに関するものを目にすることすら無く、思い出すことも無かったのだ。
この日を境に、僕の生活は少しずつ張りを取り戻し始めていった。勿論、収入面では相変わらずのカツカツではあったが、精神的な活力が
弟の癖のある文字で宛先が記載された段ボールを開けると、一番上に入っていたのはランディングネットであった。ハンドルの部分には、白蝶貝を用いてカワセミを模った美しい
こうして、夜勤明けに近所の里川で釣りをして帰宅するという日々を続けているうちに、僕の心にある感情が湧き起こって来るのを感じた。
─ もう、こうなってしまった以上、僕がこの社会で浮かぶ瀬は無いだろう。
─ 人並みの幸せとやらを手に入れることは、もう出来ないのだ。
それは、これまで目を背けてきた物事の別の側面だ。
─ それを認めた上で、やりたいことをやろうじゃないか。
─ 僕の人生は他の誰でもなく、僕の為に有るのだから。
その物事とは僕自身、或いは僕の生き方そのものなのだ。
─ 人の目を気にして生きることに、どれほどの価値が有るのだ?
─ 誰かとの相対比較で決まる順位付けに、如何ほどの意味が有ると言うのか?
僕は、まさかの為にとなるべく手を付けずに取っておいた退職金を使い、最新機能を満載した新車のゴルフを購入した。その行為を無謀という人は居るだろう。そういう僕も、さすがにこれは無謀だと思った。しかし、変に貯蓄を温存していることが、かえって自分の行動の
無論、病気や怪我の際に金が必要となることは有るだろう。だがこの先、何かの弾みで弱気になってしまった時、銀行に眠っている幾らかの金に頼って、「ひょっとしたら、今からでも普通の生活に戻れるんじゃないだろうか?」などと逃げ出したくなる自分の姿が目に浮かぶのだ。
結局、自分の退路を断つことでしか、僕は新たな一歩を踏み出せない男なのかもしれない。そんな僕を弱い男と呼ぶなら呼べばいい。勝手にするがいいさ。否定はしない。だがそういった不特定多数の非難の声は、もう僕の耳には届かないぞ。耳を傾けるつもりも無い。
─ もう何が有っても俯くことは止めよう。
僕は白いゴルフのトランクに釣り道具一式とキャンプ道具を詰め込み、那須塩原のアパートを引き払った。33歳の時だ。進路は北。
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