第二章:進路は北(6年前)
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僕は今、初めての川を釣り登っていた。麓の里で日釣り券を購入した際に店番をしていたお婆ちゃんに聞き取りし、教えられた場所だ。お婆ちゃんの的を得ない説明をかみ砕いて当たりを付け、「多分、ここのことだろう」と思しき沢に入って数時間が経過している。
実を言うと、こういった釣り場情報を得るには女性に尋ねるに限るということを、僕は経験的に知っている。何故ならば、釣り券販売店の男性店主などは自分だけの穴場を持っていて、決してそれを他人に教えたりはしない。従って僕のようなよそ者に「どこが釣れますかね?」などと聞かれても、ニコニコと愛想よく、しかし「自分の方が釣りの腕前は上なんだぞ」という無意味な虚勢を張って、そこそこ釣れそうな当たり障りの無いポイントしか教えてはくれないものなのだ。
それに対し女性の場合、旦那の秘密のポイントなどには何の価値も見出してはいない。むしろ退屈な自慢話にウンザリしているくらいのもので、旦那が「命より大切」と思っている情報を、何の躊躇も無くペラペラと教えてくれる。
結局、秘密の釣り場に関しては、たとえそれが長年連れ添った妻だったとしても ──いやむしろ、長年連れ添った妻だからこそか?── 決してその場所を明かしてはならないのだ。ありきたりの台詞だが「女は強い」と僕は思う。
果たして、お婆ちゃんの情報は一級品で、僕は良型の岩魚を次々と釣り上げてはリリースを繰り返していた。激怒する旦那さんが頭から湯気を上げているのを、軽く受け流しているお婆ちゃんの姿が目に浮かんで、僕はクスクス笑いを収めることが出来なかった。
笑いを堪える僕の耳は、絶え間なく流れ下る清流が奏でる水音で充満し、鼓膜は飽和状態に達していた。そういった環境に長く身を置いていると、今聞こえている音そのものを基底値とするようなアジャスト機構が発動し、水音に隠れた僅かな異音の輪郭が浮かび上がって聞こえるようになるのは、人体の不思議と言えよう。
まだ盛夏には早い時期である。ヒンヤリとする空気が名残惜し気に、残雪と共に日陰に巣食っている。しかしあと二ヶ月もすれば、浴びせかけるような蝉の声で谷が満たされ、それらの冷気は山頂付近へと追いやられてしまうだろう。ただ、たとえそうなったとしても僕の耳はアジャスト機構を発動させて、溢れかえる蝉の絶叫の底に潜む渓魚が、水面を割って毛鉤に食い付く瞬間の音を漏れなく察知する筈である。
この不可思議な現象を我が身をもって感じる度に僕は、こいた屁の匂いが直ぐに気にならなくなるとか、ブスも三日見れば慣れるみたいな現象と通じる部分が有るに違いないと勝手な学説を思い描いては、一人でニタニタとしてしまうのだ。
その時、流れの中心付近に沈む岩が作り出すヨレに、僕の投じた毛鉤が差し掛かった。黒いコックハックル(雄鶏の蓑毛)にピーコックハール(孔雀の羽の一部)のボディを持つ、自分で巻いた
しかし僕の耳は、例の基底値再設定機能が働いていて、その僅かな音すらも聞き漏らさなかった。勿論、聴覚だけでなく視覚によっても、事の次第の全てを認識、把握している。直ぐさまロッドを立てると、グググッと竿先を絞り込む魚の脈動が伝わって来たが、その直後に小さな飛沫を残して毛鉤だけが僕の手元に戻って来た。
「あちゃ~・・・ 今のは大きかったかなぁ・・・」
釣り逃がした魚が大きいのは今も昔も変わらないし、たとえそれが、周りに誰もいない単独釣行であったとしても同じなのだ。今のはきっと、40センチ近い大物だったに違いない。
でも、こんな失敗すらも笑って受け流せるのは、初夏の山岳渓流に付き物の、爽快な岩魚釣り特有の雰囲気によるものだろう。僕はヒュンヒュンとフォルスキャスト(毛鉤を空中に保ったまま行うキャスティング動作)をして毛鉤の水気を切ると、先ほどと全く同じレーンに毛鉤をデリバリーするのだった。
この沢は丁度、福島県から日本海側に越境し、新潟県に入った辺りだ。僕自身、日本海側の出身だからかもしれないが、やはりこちら側に来ると、なんとなく落ち着くというか安心できるから不思議だ。日の光もあまり届かない森に足を踏み入れた時でさえ、太平洋側のそれは乾いた印象を与えるのに対し、日本海側では魑魅魍魎の類が、大樹の陰や草むらからこちらを窺っているような不穏な感覚に襲われる。八百万の神を崇めた日本人の根底に有ったのは、きっとこのような得体の知れぬものへの恐怖や畏怖の念だったのだろう。
それを「水が違うから」とか「空気が違うから」などと知った風なことを言うつもりは毛頭ないし、そんな根拠に乏しいこじ付けで解かったつもりになれるほど、僕は単純な人間ではない。判らないことは判らないと認めつつ、その背後に隠された原理を追い求めることの方が重要ではないのか、などと哲学者めいた思考が僕の個性なのだと、なんとなく思っているだけだ。あるいは「そうありたい」と望んでいるだけかもしれないが。
その一方で、やはり肌で感じたものこそが真実なのだろうという考え方も、捨て切れずにいるのは、結局、僕がどっち付かずの中途半端な人間だからなのかもしれない。頭で考えたことよりも、心が求めるものの方が大切であるなんて言い尽くされた表現ではあるが、そこにこそ真理が隠されているような気もしてならない。
こんな風に取り留めも無い考えを巡らせ、自分自身を見つめ直す為に ──と言ったら格好付け過ぎか? せいぜい問い質すくらいが適当かもしれない── 山に入って釣りをしているのだと、ぼんやりだが自身の行動原理を分析している。いずれ何かが見えてくるのではないかと期待をしてだ。
ただし、その「何か」が容易に姿を現してくれることは無く、僕は相も変わらず旅を続け、釣りを続ける羽目になっているというわけだ。
こうやって僕は日本中の各地を少しずつ移動しながら、あちこちの里川や渓流を釣り歩くというお気楽な生活を、もうかれこれ3年ほども続けていた。30歳半ばの働き盛りの男が平日から川に入り浸って、何故、呑気に釣りをしているのか?
それは面白くもなんともない、僕の半生を紐解かねば判っては貰えまい。
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