花街の用心棒【三日月を胸に抱いて】
深海亮
第一話
男たちが言う
おまえは水面に映る月のようだと
掴もうとしても掴めない
それがたとえ、一夜でさえも
そうだね、とわたしは笑う
わたしでさえも、もう分からないんだ
【三日月を胸に抱いて】
花街、流苑にある紫水楼は大いに賑わっていた。
特に今宵は、巷で評判の楽師が新曲を披露しているのだ。
琵琶が奏でる旋律には、西方を彷彿させるような異国の趣がある。
江瑠紗……いや、これは玻璃で耳にした音色に近いだろうか。軽やかで、拍節が早い。
雪花は炊事場の隅で、白湯を飲んで休憩していた。
「雪花、それを飲み終わったら上に料理、持っていってくれないか。人手が足りないんだ」
「えー、休憩中なんだけど」
「余ってる鯣を分けてやるから」
「分かった」
ただでは動かない雪花の扱い方を、この妓楼の人間たちは良く知っている。
雪花は白湯を呑み終えると、盆に載せられた料理を両手に持ち、慣れた様子で運んでいく。
階段を三階まで上がり料理を運び入れると、客の男たちがご機嫌そうな表情で、妓女に酌をしてもらっていた。
最近では長杉が流行し出しており、妓女の数人が着用している。
そういえば蘭瑛妃も購入していたっけなと、懐かしい過去を思い出す。……といっても、彼女たちには先日顔を合わせたばかりだ。
自分から離した手なら、自分から掴みにいけと発破をかけられ、彼女たちが用意してくれた舞台に勢いのまま挑んだが……。
(思い出しただけで、死ぬほど恥ずかしい)
雪花は誰も見ていないことをいいことに、頭を抱えた。
今までも自分があんな行動に出るなんて考えられない。正直自分は、恋や結婚などにかすりもしないと思っていた。……というより、妙な自信があったのに。
(恋煩いとかいうけど、本当におかしな病気なんじゃないか)
現実を受け入れつつも、自分の変化に戸惑ったままの雪花は盛大なため息をついた。
一年後、自分は本当に嫁入りしているのか……?
あの男、紅志輝はすぐにでも嫁いで何の問題もないというが、こちらは色々な意味で初心者だ。
一年という準備期間を与えてくれてよかったと、おばである春燕に実は感謝していたりする。
雪花は再度嘆息して自身の両頬を軽く叩くと、鯣をもらうべく階段を下りることにした。
今は仕事中だ、余計なことは考えなくていい。
するとその時、階下から何かが割れる音と共に女の悲鳴があがった。
雪花は廊下を駆け出して、階段を一足に飛び降りる。
「雪花姐ちゃん!」
「何があった」
すると禿の花林が、盆を手に駆け寄ってきた。彼女の表情は緊張を孕んでいる。
「多分、
嶺依とは、若手の中で人気のある妓女だ。
雪花は頷くと、彼女の部屋へと駆け付けた。
扉を開け放てば、割れた陶器のかけらが床に散らばっている。
その中で、一人の男が嶺依を背後から拘束していた。彼女の白い首筋に短刀を添えて。
「来るな」
唸るようにして言った男の目は仄暗かった。
虚ろというべきか、雪花を見ているようで見ていない。妙な静けさを纏っていて猶更気味が悪い。短刀を持つ男の手も震えてはいなかった。
危険だと、雪花は瞬時に理解した。
「……お客様。彼女を、離して頂けませんか」
男を刺激しないよう、雪花は彼と視線を合わせたままゆっくりと話しかけた。
「嶺依はわたしだけのものなんだ。わたし以外の客をとらされて可哀そうに……。だから、一緒にいくんだよ」
「……心中するおつもりですか」
男は話し方もひどく落ち着いていた。これは本当に危ない――自分の世界しか見えていない奴だ。
「嶺依を助けるためだ。いつまでも、こんなところに居ては汚れていく一方だから。分かるよね、嶺依。大丈夫、わたしもすぐ後を追うよ」
短刀の棟で震える嶺依の頬を撫でると、男は短刀を振り上げた。
雪花は舌打ちし、袖の内に隠し持っていた匕首を手に取った。そして、短刀を持つ男の手を目掛けて投げ放つと同時に床を蹴った。
匕首を手の甲に受けた男は短い呻き声をあげ、短刀を手放す。
雪花は間髪入れず男の顔面に拳を叩き込み、拘束が緩んだ隙に、怯えた嶺依の手を強く引いて男から引き離した。
「心中するなら一人でやれ」
そして男の腕を捻り上げ、その場に縫い付けて制圧した。
間もなくして騒ぎを聞きつけた男衆たちが駆け付け、凶行に及んだ男を縄で拘束して連れ出してくれた。しかし拘引されながらも、男は嶺依に対し行き過ぎた想いを叫び続けていた。
蛇のように耳に絡みつき、雪花ですらもぞっとする。
(あれは、妄執の域に達してるな……)
妓楼にいれば色んな人間を見る。
妓女との一夜を、その場限りと楽しむ人間。
いつの間にか嵌まりこみ、散財を尽くし、一文無しになる人間。
妓女と真の想いを通わせ、共に足抜けしようとして、失敗に終わった人間。
そして今回のように、行き過ぎた想いを一方的に抱き、無理心中しようとする人間。
雪花は嘆息すると、拳についた男の血を手巾で拭い取った。
「……ありがとう、雪花」
嶺依は床に座り込んだまま雪花に礼を告げた。まだ冴えない表情をしている。
「いえ。強引に腕を引いてすみません。大丈夫ですか」
「ええ……」
すると帰蝶もその場にやってきて、嶺依の傍に膝をついた。
「大丈夫かい」
「……すみません、ご迷惑をおかけしました」
「今日はもういいよ。後から事情を聞かせてもらうが、それまで休んでな」
「……ありがとうございます」
「なに、構わないさ。……だがね、気を付けるんだよ。客を虜にするのは構わないが、相手を制御することを忘れちゃいけないよ。そのあたりをしっかりと見極めて仕事しな」
「はい」
帰蝶は禿たちに部屋を片づけるように指示を出し、嶺依の部屋を後にした。
雪花も仕事に戻る頃合いなので、帰蝶の後を追う。
「悪かったね、雪花」
「いえ。無事で良かったです」
「嶺依はまだ若いから、客との距離が読めずに近すぎる時があるからねえ……。まだまだ、人を見る目がなっちゃいないんだよ。客を制御できてこそ、本当の玄人だ」
制御……か。帰蝶の言うことは分からなくもない。
萌萌や秀燕は、客との間に問題が起こった試しがない。
それに客同士の争いもお目にかかったことがないから、二人は本当に玄人なのだろう。
「あんたも気を付けるんだよ」
「え?」
「あの紅家の坊ちゃんは、ああいった性質を多少は持ってるだろうからねえ」
「…………」
ふふんと鼻で笑う帰蝶に、雪花は頬を引き攣らせた。
否定できないところが、あの男――紅志輝の怖いところである。
「ま、それはともかく仕事に戻りな。外で客人があんたをお待ちだよ」
「客?」
「玻璃の坊ちゃんさ。手短に話があるんだとさ」
「グレンが?」
雪花は首を傾げつつ、外へと向かうのであった。
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