第24話 y f
城を出てしばらく経ったあと、俺はここに来るまでずっとだんまりだったジュールに話しかけた。
「今日は熱力学区なのか」
「ああ」とジュールが頷く。
「なんだか抵抗の顔が冴えなかったな」
先程の抵抗の表情を思い出してそうつぶやくと、「まあな」とジュールが頷いた。
「抵抗があんな顔になるのも無理はない。……熱力学区は、現在物理地方と化学地方で領土争いをしている場所だ。そのせいで少しばかり治安が悪い。だから、今回は送り迎えだけでなく、俺も一緒についていくことにする」
その言葉に驚いて、俺は思わずジュールの横顔を見た。
「お前にもらったスタンガンならここにあるぞ」
そう言って上着のポケットを探り、スタンガンがあるのを確かめる。しかし、ジュールは首を振った。
「……化学地方の奴らはスタンガン程度じゃどうにもならない。あいつらは少し特殊なんだ」
ジュールの言葉に疑問を持ちつつも、俺は黙って彼の後ろをついていった。
「化学地方とは随分と仲が悪いんだな」
俺の言葉にジュールが頷く。
何故化学と物理が仲が悪いのか俺にはさっぱり分からない。人間がよく物理と化学の組み合わせで勉強するように、どちらかというと二つの教科の結びつきは強いはずだ。むしろ物理にとっては生物のほうが疎遠なような気がする。
そのことを述べるとジュールが
「人間目線では分からないかもしれないな」と言った。
不思議に思い彼の顔を見る。ジュールはその視線を受けて、ちらりと俺の方を見てから続けた。
「確かに物理と化学の結びつきは強い。だが、それ以外の要因のほうがこの国では大きい。……物理地方が理科の国の首都なのは知っているな?」
「ああ」と相槌を打つ。
「しかし、今の理科の国の経済の中心は化学地方になっている。それなのに、うちの親父が王だって言ってふんぞり返っていたら、理科の国を支えている化学地方の奴らが文句を言いたくなるのはわかるだろ」
「そうだな」とジュールの言葉に頷く。
「化学地方の奴らは、俺の親父じゃなくて奴らの王、原子を理科の国の王にしたがってるのさ」
「おいおい、この国には王が二人もいるのか?」
俺が呆れたように言うとジュールが頷いた。
「ああ。二人だけじゃない。生物地方にも地学地方にもそれぞれ王はいる。そのうち、理科の国全体の王も兼任しているのが俺の親父ってことだ」
ジュールの言葉に俺はふうんと相づちをうった。
「つまり、化学地方の奴らは物理地方が首都であることが気に入らないから、お前らにちょっかいをかけてきているということか?」
だからって公式を破壊するなんて、少しやりすぎではないだろうか。公式が消える恐ろしさなんて、同じく理科の国に住む者なら分かるはずだろう。
そう言うとジュールが黙り込んだ。そして言いにくそうに口を開く。
「いや……。それだけじゃこんなことにはなっていない」
「じゃあ、一体どうして……」
質問の途中で俺の言葉は遮られてしまった。誰かに「君が、例の救世主とやらか」と声をかけられたからだ。それは、穏やかな男の声だった。
視線を巡らせれば近くの木の枝の上に誰かが腰掛けているのが見えた。
そいつは藤色の短髪だが、顔の右側からは長い髪がこぼれ落ちていた。魔道士のような紫色のローブを身に着け、左耳にはSとかたどられたイヤリングをつけている。そいつは怒ったような、しかしどこか悲しそうな瞳で俺たちのことを見下ろしていた。
「なんだ?あんたは」
そう尋ねると彼がまたもや口を開いた。
「私のことは今は割愛させてもらおう。ところで君は、公式を作りにここに来たのだろう?しかし、そうはさせない」
「なに?」
俺は怪訝な顔で聞き返す。きっと彼も物理地方の人間だろう。それなのになぜ、こんなことを言うのだろうか。
「公式を取り戻すために必要な概念である内部エネルギーたちは私が預かった。返してほしければ私のところまで来るんだ」
「あんた、一体何者なんだ?」
そう尋ねるが、そいつは質問に答えずこちらを見つめるばかりだ。
「考えなしに公式を取り戻したところで、何も変わりはしない。君がきちんと物事を考えられる人間であることを証明できれば、公式を作るための者たちの解放を考えてもいいだろう」
そう言ってから指を鳴らすと、彼は瞬く間に白い粒の集合体になり、最後には霧散するように静かにその場から姿を消した。
そいつがいなくなってしまってから、俺はずっと黙っていたジュールに話しかけた。
「おい、ジュール。あいつは一体誰なんだ?やけに公式を作ることに抵抗があるようだったが」
「あいつはエントロピーだ」
間髪を入れずに言ったジュールの言葉に驚いて目を見開く。
「エントロピー?そんなの、高校物理で習う概念の範囲を超えてるじゃねえか」
「この地方には全ての物理の概念が存在している。だから高校物理以上の概念だっているさ」
ジュールの言葉に(言われてみればそうだな)と考え直す。今まで会ってきた奴らが全員高校物理の範疇だったので、この地方には高校物理の概念しかいないものだとすっかり思いこんでいた。
「それにしてもあいつ、物理地方の住民のくせに、公式を取り戻したくないとはどういうことなんだ?」
そう腕を組んで呟くと、ジュールが少し言葉を濁した。
「いや……。彼は物理地方の住民とは言い難い」
彼の言葉に俺は怪訝な顔をする。
「じゃあ、どこなんだ?化学地方か?」
物理地方と仲の悪い化学地方の住民なら公式作成を邪魔するようなことをしてもおかしくない。
しかし、ジュールはその推理にも首を振った。
「化学地方ともはっきり言い難い。……あんたは知っているかもしれないが、熱力学とは微妙な位置づけだ。物理でもあり化学でもある。だからこんなふうに領土争いが起きてるんだ」
ジュールの言っていることがなんとなく分かるような気がした。確かに大学では物理専攻の人間だけでなく、化学専攻の人間も熱力学を勉強することが多い。
「まあ、要するに熱力学区は少し中途半端な立場なんだ。だから、正しく言うなら彼は『熱力学区の住民』なのかもしれない」
彼の言葉に俺はふうんと頷いた。
「なるほどな。まあ、なんにせよ公式は取り戻さないといけない。エントロピーを追いかけて内部エネルギーたちを取り返すしかないな」
おそらく『内部エネルギーたち』とは内部エネルギーと熱量、仕事の三人のことをさすのだろう。彼らがいなければ熱力学第一法則の公式はたてられない。
「よし、じゃあさっさとエントロピーを追いかけるぞ」
「ああ」
俺の言葉にジュールが頷いた。
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