第2話 梅干し・レモン・もずく酢(by 実璃)
「すみません、お先に失礼します!」
「お疲れ様。無理しないようにね」
「お気遣いすみません…」
午後5時15分。文字通りの定時ダッシュで市庁舎のエレベーターに飛び乗る。課長が理解のある人で、本当に良かった。
スマホを開けば、メッセージと着信通知の嵐。
『もう無理』『たすけて』『つらい』『しにたい』『きもちわるい』
菜瑠からの全力のSOSだった。
同じ女とはいえ、未経験者の私には想像することしかできない辛さ、それは、「つわり」というやつだった。
今週で妊娠8週目。個人差はあるらしいけど、この辺りでちょうど辛さがピークを迎える人も多いらしい。
ネットで聞きかじった情報と、メッセージでリクエストされた、菜瑠の食べられそうなものを、スーパーで片っ端から購入し家へ急ぐ。
梅干し、レモン、もずく酢、新生姜、ところてん……。
急ぎすぎて自分の食べ物を用意するのなんかすっかり忘れてしまっていた。
玄関を開けたら、部屋はものすごいことになっている。
いつもどおりだけど、片付けなんてできる体調じゃないから、今朝脱いだ服がそのまま散らかり、食べようとしたと思われるミカンゼリーが、中途半端に残っている。
そして、ボロボロに髪も服も乱れた姿の菜瑠は、泣きながらトイレで吐いていた。
「実璃ぃ……もうやだっ……うぅっ……」
朝からろくに食べられていなくて、何も吐くものなんかないのに、それでもまだ気持ち悪いのだと、泣きながら言う。
大げさに言ってるのじゃないことは、見ればわかる。好物のミカンゼリーさえ、甘さがなんか気持ち悪かった、と言って、受け付けないのだ。
さぞ、辛いことだろう。
私は、泣いている菜瑠の背中をさすり、水分を取るように促す。
身体の辛さだけじゃない。ホルモンバランスの急激な変化で、メンタルの方も相当こたえるのだろう。
異様にでっかいPMSみたい、と、菜瑠は後にその辛さを語った。
……おなか、すいたな。
泣いている菜瑠の前で、お腹が鳴らないように抑えようとするけど、結構辛い。
残業をしないようにと、お昼も返上で仕事したのは失敗だった。
ごはんの炊ける匂いが気持ち悪くなるから、家では私も満足に食事がとれない。
ネットで聞きかじった情報だと、この時期、こういうことでも、早々に危機を迎える夫婦も多いと聞く。
確かに、食事というのは生き物の本能にかかわる部分だから、愛情とかそういう抽象的な概念だけじゃ、乗り越えるのは辛そうだ。
しかも今日は特に辛い日みたいで、買ってきた梅干しやレモンすら駄目そうだった。
食べれないから、また激しく泣かれた。
さて、こういうとき、どうしたら……。
途方に暮れていたその時、だった。
タラッタッタッター♪
テレビに、神が降り立った。
神じゃなくて、ドナルドだった。
菜瑠のお腹が、ぐぅ、っと、音を立てた。
「実璃ぃ、マックのポテト、食べたいいい」
ドキンちゃん、じゃなくて、菜瑠がまた泣くので、ばいきんまん、もとい私は、自転車を漕いで、夜道を急いだ。
ああ、UFO、作っとくんだったな。
24時間営業って素晴らしい、っと思った。
この戦いが終わったら、某社の株を沢山買っとこう、そんなことを思ってしまった。
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