第51話 ヴァン・タタール

 






 妻が死んだ。


 私の愛する妻が死んだ。


 一体どれだけの日が過ぎただろうか。


 時間はけっして心についた傷など癒やしてはくれなかった。














「おい、ダヴァガル、飲み過ぎだ」


 店のオーナーに止められる。時々こうして無性に飲みたくなる日が来る。飲みたいというよりかは、飲まなきゃやっていられないというべきか。いや、それすらも正確ではないかもしれない。


 死んだ彼女の姿が、今でも目に焼き付いて離れない。その悪夢が自分を殺す前に、自らを酒で潰さなければならなかった。


「オーナー、すまない。今日だけは飲ませてくれ」

「昨日もそう言っていた。お前の酒の量は年々少しずつ増えている。それに頻度もだ。前は月に数回潰れるほど飲んでいたが、今は週に何回もこんな飲み方をしている」


 ここのオーナーは王国では珍しく、東和人に限らず全ての客を等しく受け容れてくれる。


 素晴らしい方だ。私は彼の人柄に甘えてしまっている。


「わかった。マスターがそう言うなら仕方ない」


 そう言って勘定をすませて店を出る。今日も王国に風はない。


 既に風を感じられなくなっていた。













 そんな日のことだった。いつも通り気の抜けた軍で気の抜けた仕事を終えると、訓練場に珍しく訓練している兵がいた。


「はっ!てやっ!」

(珍しいな。新兵か?)


 新兵にありがちな入隊当初だけ張り切るやつだろう。あと三日もすれば気付くはずだ。そんなことする価値はないと。


 そんなことを考えながら木陰に座る。特に気にもせずぼーっとしていると、その兵の剣筋に目を奪われた。


(良い振りだ。洗練されている)


 今まで見てきたどの兵士よりも鋭い剣さばき。並の兵士ではない。


 そうやって目をこらすとその兵士が女性であることがわかった。


 王国貴族では金髪で長髪の貴族は珍しくはない。だからてっきり男がやっているものだと思った。だがその動きは男女関係なく王国で最上級の実力であることがうかがえた。


(金髪に碧眼……そうか、あれが英雄の娘か)


 英雄セザール・ランベール。あの戦争を経験した兵士で彼を尊敬しない者はいない。私自身もそうだ。


 だが彼女にまで敬意を持つかどうかは別な話だ。親と子が必ずしも同等の能力を持つわけではない。得てして優秀な人間の子供は、その重圧耐えきれないか、その厚遇に堕落する。


 そんなことを考えながらただぼーっと彼女の訓練を遠目で眺めていた。











「おいおい、聞いたかよ。英雄の娘の話」

「ああ。何やらこの前の戦に参加して、惨敗だったらしいな」


 今日も今日とてバーで酒をかっこんでいく。そんなとき隣の客の話が耳に入った。どうやら彼女の初陣だったらしい。結果は散々だったようだが。


「たいしたことねえな、英雄の娘っていうのも」

「なんでも一目散に逃げてきたらしいぞ。背中も切られたそうだ」

「なんでえ、王国の恥だな」


 男達が好き勝手言う。少なくとも彼等の体躯からして軍人ではない。耳が早いことから王国付の記者というところだろうか。ハッキリ言って気分が悪い。


 記者は嫌いだ。あの戦争を煽ったのも、英雄を奉ったのも、すべてこの男達だ。記事を売るために情報すらねじ曲げ、報道する内容を選別する。


 英雄を奉る一方で、逃げた王国兵の話や、死んだ同胞や妻の話を記事にすることはない。何故ならば戦争の情報はスリリングであり、それが彼等の金になるからだ。反戦のムードはそれだけで問題だ。


 だがそんなものは慣れていたはずだった。記者がそういった人種であることは今に始まったことではない。少なくとも、怒るような真似はしない。その程度に大人ではあるはずだった。


「ん?なんだ、てめえ?」


 私は知らず知らずのうちに彼等の元まで歩いてきていた。そして思い切りよく拳を振り上げ、その顔を殴りつけた。


「ぐはあ!」

「お前、何を……ぐあっ!」

「何をやっているんだ!ダヴァガル!」


 マスターが止めに入る。また彼に甘えてしまった。


「すまない。マスター。迷惑をかけた。……もう来ないようにするよ」


 私は手持ちの金を全ておいて店を後にする。自分の唯一の居場所であったバーを失ってしまった。


 だがもう潮時かも知れない。彼女のもとに、そろそろ行くべきなのかもしれない。そうとすら感じた。


 風は今日も吹いてはいない。











 翌日は気持ちが良いほどに良く晴れた日だった。太陽の日が照りつけ、立っているだけで汗が出る。


 こんな日は一杯やりたいものだが、もういける店はなくなった。特に思いつく行き場もないので、訓練場の木陰で座っていた。


 例の失敗した彼女は十二騎士団の団長に任命されたらしい。今朝一番の報道で知らされた。


 予定調和の人事だ。こんな反吐の出るような所業で、一体いくつもの罪のない兵卒が死んだのだろうか。少なくとも、王国の人事がまともであれば、妻が見捨てられるようなことはなかったのかもしれない。


 まあこれで彼女も少しは目を覚ますだろう。勿論悪い意味で。この軍で訓練など無用だ。そんなことをしても誰も救えないし、出世にも関係はない。


 こんな腐った場所で正気を維持する方がまともではない。訓練場は今日も一面が見渡せる程度に空いていた。


(ん?)


 しかしぼんやりと訓練場を眺めていると、人影が見えた。昨日とは違う位置ではあるが、剣を振っている女性がいる。


 遠目でも分かる。彼女ほど美しい剣さばきをする人間は他にいない。


「はっ、てやっ!」


 ただまっすぐ、今日も剣を振るう。まだ失敗を引きずっている部分もあるだろう。どこか剣に迷いもあった。これから長い泥沼を進むことになる。


 だが問題はない。彼女はそれでも前へ進もうとしているのだから。


 彼女の存在に気付いた時、足がひとりでに動き出していた。


 ゆっくりと歩き出し、そして走り出す。そして勢いよく、あのバーの扉を開けた。


 準備中のマスターが驚いた顔でこっちをみている。


「出禁宣言を一日で破るとはな」


 マスターはそう言って優しく笑う。私はマスターに言った。


「マスター、昨日はすまない。それとしばらく来ないことにする。……もう酒はやめだ」

「……そうか」


 彼は私の顔を見て何かを察したのだろう。何も聞かず、ただそう言った。


「ありがとう。マスター」

「達者でな」


 私は回り右して店を出て行く。確か第七騎士団といったか。


 受け容れてもらえるかは分からないが、異動届を出してみよう。できれば仲間達にも声をかけていこう。きっと彼等も、動いてくれるはずだ。


 足取りは軽く、王都の道を勢いよく駆けていく。


 風が強く吹いていた。






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