第8話 そのひとの影、あえかなり
カナヤは一段高く設えられた奥の間へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
そこには
***
奥の間の空気は、冷たく乾いていた。
それは――月の光がなせる技か、それとも陽が現れる前のひと時の、明仄の光の戯れなのか。甘い香りに酔うた
奥の間の壁は一面の綾錦が飾られ、床には職人が何年もかけて織り上げたであろう手の込んだ模様の厚地の絨毯と、絹やびろうどの織り物が敷き詰められ、女部屋らしい華やかさと豪華さに溢れていた。並べられた家具や器類は、どれにも金片が埋め込まれたり、絵付けや、細かな彫刻が施されたりと、それはもう溜め息が出る見事な品ばかり。
普段のカナヤであれば、それとなく値踏みをしそうなもので溢れていたと云うのに、今はそれらも眼に入らぬ様子。
彼の視線はただ一点、部屋の中央にある人影へと注がれていたのだから。
部屋の中央には、貴石を天上の星と見紛うばかりにちりばめた脚の低い
並べられた
(おお、なんと儚げなお
カナヤは息を飲んだ。淡い夜明けの光の中で、しとやかな女主人の姿は、やわらかで瑞々しい虹色の輝きを放つ
そのひとを驚かせぬよう、怯えさせぬよう、静かに丁寧に腰を折って。
「明けの明星のようにお美しい姫君よ。わたしの楽園の
おそば近くまで参りました。どうかこの憐れな
ああ 静かな夜は 足早に隠れようとしている
私の姿を闇に溶かしてくれる 心優しき夜の妃の情けも
陽の光の前では 役に立たない
陽の光は冷淡で 私の心を暴いてしまう
朝の光がこの憐れな男の姿を照らし出す前に、どうか情けを。一瞥の眼差しでも、唇を震わせたときに思わず漏れた吐息でもかまいません。
あなたに恋い焦がれる
カナヤは大胆にも女主人の
「ああ、つれないお方よ。旅芸人風情には、掛ける言葉もないとおっしゃるのか!」
若き
熱に浮かれたカナヤではあったが、さすがに奇妙と感じていた。
相手は奥津城の姫君。男に言い寄られた
――否。年若い侍女に部屋まで案内させ奥の間に通すくらいなのだから、この後の密か事の期待もあるはず。媚薬混じりの香まで焚き、彼を誘っているのだから。
世慣れているのかいないのか、戸惑いを覚えた
ならば、とカナヤは大胆に腕を伸ばす。
「姫君よ、あなたの
彼得意の人懐こい笑顔と甘い声で、 奥手の女主人を怖がらせぬよう、静かに、静かに
さすれば、ビーズの刺繍された小さな
秘中の美を暴くという行為に、彼の背には震えが走った。
目映い衣裳は間違いなくこの女人が高貴な身分だという証であり、その美々しさは夢見心地の男に、テペラウ
「この神秘の
君こそが、陽の光。月の輝き。
星々はその高貴な煌めきに恥じ入り、闇に隠れん。
その明かりを一番に拝む栄光を、この
衣裳に焚き染められたまれなる香りがフワリと拡がり、鼻から脳へと流れれば、若い男の躰は敏感に応え始める。
頬は赤味を強め、
急速に高まった欲情は、思考から慎重さを奪い去る。先ほどまでの疑惑は消え失せ、代わりに胸に満ちた女主人への
絞り出した熱の籠もった吐息と共に、いつの間にか強く握りしめていたうすぎぬの
カナヤは素早く長椅子の女主人の隣へと躰を滑り込ませ、彼女の腰に腕を回し、強引に小枝のようなか細き腰を引き寄せた。うつむく小さな
「ぅ……ぅぅあわわわわわぁ……」
カナヤは情けない声を張り上げると、ドサリと長椅子から滑り落ちる。驚きに顔を引き攣らせたまま、くるりと躰を捻ると、
だが蟻地獄に落ちた蟻がすり鉢状の巣穴から抜け出せぬように、敷き詰められた絹やびろうどの敷物が、彼に絡みついて思うように進むことが出来ぬ。
それでも手足を動かし、訳の分からぬ声を上げ、敷物の波の溺れ焦るカナヤの前に少女が立ち塞がった。
「ああ、なんて酷い仕打ち!
あれほど執心だったと云うのに、あたしの女主人さまを突き飛ばすなんて!
少女は眼にいっぱいの涙をためて、彼の薄情をなじる。それも道理。ご存じのとおり、家族でもない男性が婦人の
そこまで事を運んだというのに、顔を拝んだ途端悲鳴を上げるのでは、女主人の面目は丸つぶれと相成るではないか。
否。そもそも最下層の身分である
だが情けない男にも言い分があった。
「な……なんてことって、そりゃあこっちの台詞だよ。君の女主人様は……。
君の女主人様は、
震える声で
しかも手荒くカナヤが弾き飛ばしたせいで、行儀よく座していた女主人の亡骸は、
先ほどまでの夢のような雅やかな雰囲気はどこへ、月夜の魔法は解け、辺りは埃っぽい泡肌が立つような冷えた空気に包まれる。
部屋を覆うは死の香り。どれほど魅惑的な
目映く見事な品と見えた部屋の調度品の数々も、全てが輝きを失った。長い年月にさらされた品々は色艶も失せ、怯えるカナヤの目の前で、性が抜けた
長き年月がまばたきの間に訪れたかのようで、その重みが底知れぬ静寂が呼んでいた。
寂しいかな。塵芥に囲まれた女主人は、頭蓋骨に開いたふたつの
***
カナヤはどうにか息を整えると、これはどうしたことかと少女に問おうとするのだが。
それより早く、少女は大切な女主人に駆け寄った。大急ぎで床に散らばった骨を拾い集め、つなぎ合わせて、大事な主人の腕を元通りにしたのだった。
それは、もう。魔法としか言いようもない、目を疑うような出来事で。
さらに木乃伊となった主人の躰を、
驚きで躰が強張ったままのカナヤは、その様子を言葉も無く観ているほかないのであったが。
それでも勇気を振り絞り、彼は少女に尋ねた。
「ねえ、きみ。これのどこがテペラウいちの美女、なんだ。もしかしたら、生きていたときはそうかもしれなかったけど、それはいったい何時のことだい。この女人は、すでに
「……しかばね?」
少女はこくりと首をかしげた。
「なにを言うの、
自分の落ち度をそうやって歪めて、あたしの大切女主人様を貶めようとするのね。お育ちよろしく、生まれながら拳措雅なお方だというのに。
おお、アルイーンで最も汚らわしくて卑屈な
ああそうだ、あなたはこのテペラウの都をどこかの廃墟と見間違えた、節穴の眼の持ち主だったのだわ。それでよくも
あなたを女主人様の元へ案内したのが間違いだった。優しい顔をして、なんて酷い人なのでしょう。
こうまで言われては、カナヤとて黙ってなどいられない。
「おお、怒りんぼうのあさはかな少女よ。勝手にひとを呪わぬ方がよいと云うことを知らないか。呪いは己に還るということを、君の大切で崇高な女主人様は教えてはくださらなかったというのかい。
僕の目を節穴と罵るけれど、それは君の目のことだろう。その菫の瞳は、なにを見ているの。遙か昔に消えてしまった都の夢から、まだ覚めやらぬと云うのだね」
「世迷い言をお言いでないわ!」
怒りのままに、少女は吐き捨てた。だがその声色は怒気を含もうと愛らしく聞こえたので、罵声を浴びせられたというのに、
「その言葉はそっくり君へお返ししよう。小さな忠義者さん」
顔を真っ赤にして怒る少女に、カナヤは優しく微笑みかけた。なぜならば、彼女が死した女主人が木乃伊になっても側を離れぬのか、なぜに自分をここに案内したのか、その理由を知るまではこの屋敷――今は廃墟であったが――を離れるわけには行かないと思っていたのである。
おそらく少女は魔の眷属。
恐ろしくないわけではないが、彼とて
大きな体躯や大袈裟な魔法で脅かすものもあれば、暗闇から襲いかかり裂けた口で彼を喰おうとしたものもある。
カナヤは臆病ではあったが、決して勇気や知恵が浅い愚か者ではない。闇に属するものたちとどう渡り合えばいいのか、その知識も持ち合わせている。
(まずは心を落ち着かせることが肝要――!)
旺盛なる好奇心が、恐れやとまどいを押しのけて、少女の事情が知りたいと疼いていた。
なんといっても少女はか細く可愛らしかったから、美しいものが大好きな彼としては、彼女の手助けが出来るのならばそうしたいと考えてしまう。
小さな躰からは、以前相対した
(万が一の場合は、その時に手立てを考えればいいことだ)
吟遊詩人カナヤは、自分の命など全能の神の定めた運命の上では、荒野の石ころほどにも価値のないものと考えていたのかもしれない。それよりも生来の情の厚さで、目の前で悲しむもの――それが例え人間でなくとも――に手を差し伸べねばならぬと思うたか。はたまた、怖いもの見たさも手伝った、単なる軽率さなのか。
いずれにしても
「ほら気を静めて、君の女主人様をよくご覧。残念だが、君の女主人様は、すでにお亡くなりになって久しい。目を背けてはいけない。君は君のすべきことをしなければ。
死者は弔わねば楽園へ旅立てないんだよ。賢い君は、そのことは承知しているはずだ」
諭すように言い聞かせると、少女は拒むように首を横に振っていたが、やがてジッと
その様子があまりにも哀れだったので、カナヤは我知らず少女の躰を抱き締めていた。
すると、それまで堪えていたものが一気に吹き出したのか、少女は大声で泣き出してしまったのである。
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