【拾弐】
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*
機会は数日後、思いがけずにやって来た。
忙しなくお山の方や侍女達が支度するのを見ていると、「これ」と叱られた。
「そなたも、父上をお迎えする支度をなさい。呆けている暇はありませんよ」
「支度……って、何がです?」
「殿は、そなたに会いにいらっしゃるのです」
月夜が母娘を照らす。侍女達が運ぶ酒や膳の匂いを嗅ぎながら、
お山の方は、幼い頃のように牟宇姫の額に掌を重ねた。しっとりと柔らかく、うっすらと甘い香りがする。なぜだか牟宇姫は、急に幼子のように泣きたくなったが、政宗がお渡りになる、という侍女の声ではっと息を呑んだ。
母と並んで膝立て、頭を垂れる。どくどくと心の臓がうるさいくらいに鳴り響く。これから、自分はどうなってしまうのだろう――そんな不安に押し潰されそうになった。まだ曼殊沙華の毒が残っているのかと懸念する息苦しさ。ほどなくして、スーッと戸が開き、政宗が姿を現した。鋭かった眼光も、牟宇姫の姿を見とめると、一気に崩れた。
「お牟宇。もう起きられるのか」
近づいてきた父からは、ほんのりと煙草の臭いがする。頭を撫でる手は固くて、あかぎれができている。
「ご心配おかけ致しました。もう、大丈夫です」
「そうか。食べたいものがあれば、何でも言え。餅でも南蛮菓子でも、何でも作ってやろう。遠慮するでないぞ」
お山の方が政宗の杯に酒を注ぐ。
政宗のことだから、てっきりお山の方に会いに来たのかと思っていたが、そうではないらしい。純粋に、牟宇姫のことを案じてくれたようだ。もう少し幼い時分であれば、父に礼を言いながら膝に乗っていたのだが、流石にそうするのは気恥ずかしい。牟宇姫は、礼だけを述べた。
(それに――)
お山の方も交え、親子3人、団らんを楽しみたい気持ちはある。しかし、牟宇姫は果たさねばならない決意があった。
「父上」
牟宇姫この時、恐らく、一生分の勇気を振り絞った。
「父上に、お願いしたきことがございます」
固くなった牟宇姫の口調に、政宗は目を細めた。
「何じゃ。新しい衣でも仕立てたくなったか。ならば、商人でも御物師でも、好きに呼びつけるが良い」
「衣は、要りませぬ。それに、商人やら御物師やらを、呼びつける気はないのです。……か、かような小さきことを、牟宇は望んでおりませぬ」
お山の方がはらはらとした面持ちで、父と娘の対話を見守っている。牟宇姫は拳を固く握り締めた。
「わたくしの望みは、ただひとつ。牟宇は、わたくしとわたくしの侍女達を葬ろうとした罪人を、この手で討ち取りたいと思っております」
政宗は、牟宇姫の言葉に、眼差しを厳しくした。
「仇討ち、とな。目星は付いておるのか」
「はい」
「証拠は? あるのか。証拠もなしに、そなたの思う者を断ずることはできぬ」
「……父上も、ご存じ、なのですね」
政宗は、
牟宇姫は胸を押さえ、息を深く吸い込んだ。
「その証とやらを、見つけてご覧に入れます。無論、わたくしに父上の家臣を貸してくださいまし、などとは申しませぬ。ただ、これからわたくしが何をしようとも、父上は何も見なかった。知らなかった。そう、仰っていただきたいのです。……一門衆にも、家臣達にも、……
政宗の眉が揺れた。
「お牟宇っ」
肩が、ぐい、と押さえ付けられた。お山の方が牟宇姫の頭を無理やり下げさせ、自身も頭を垂れ、政宗に許しを乞うている。
「無礼な――御屋形様、どうぞお許しくださいまし。姫のことは、私が厳しく叱っておきます。病み上がりで、まだ幻覚でも見ておるのでしょう――」
「良い」政宗は、お山の方を制した。「良かろう。――お牟宇」
政宗は、不敵な笑みを浮かべていた。夜空に一筋だけ浮かぶ、三日月のような眼光を牟宇姫に向かって注ぐ。
「許す。己と乳母の仇討ち、成し遂げて見せよ」
政宗は、牟宇姫に短刀を一本手渡した。竹に雀――伊達家の家紋である。準備がいい、と思ったが、政宗は最初から牟宇姫が仇討ちを申し出ることに気がついていたようだった。
「お牟宇。なれど申したからには、覚悟はできておろうな。半端者は、伊達家中には要らぬ」
「はい」牟宇姫は、父を真っ直ぐに見つめた。「わたくしは、戦の終わった世に生まれました。なれど、父上の子にございます。この短刀の紋に恥じぬよう、努めて参ります」
牟宇姫が普段、使うことを赦されているのは雪薄紋――姫用の家紋のみである。政宗が竹に雀の家紋を渡したのは、伊達家の名を背負って戦え、ということではないだろうか。
(五郎八様は、きっとわたくしをまた殺しに来る)
カステーラは、牟宇姫の命を奪うには、毒が足りなかった。きっと、再び五郎八姫は、牟宇姫を殺しに来るだろう。
「民部を呼び寄せた」
その名に牟宇姫はどきりと胸を鳴らした。
「熊を?」
「民部を供につけさせよう。そなたのためとあらば、奴は力になってくれる」
「いいえ」
牟宇姫は固辞した。
「もしわたくしが果たすことができませなければ、熊にも迷惑をかけてしまいます。熊は、石川家唯一の男児。万が一があってはなりませぬ」
などと言いながら――半分は、牟宇姫のただの意地である。牟宇姫の仇討ちを、宗昭は快く思っていなかった。忠告を無視し、政宗に会ったとなれば、また苦言を呈して来るであろう。
鞘の紋を撫でていると、政宗は、
「そなたが男児であれば……」
と、言った。
「五郎八に、お牟宇。……そなたらの一方が男児であらば、と思うことがある」
「お戯れを」
お山の方が苦笑しながら、空になった杯に酒を満たした。
「御屋形様には、田村御前様との間に、立派な跡継ぎがおられましょう?」
「望みというのは、叶わぬものよ。……お牟宇、そなたはとりわけ儂によう似ておる」
と、笑みを浮かべただけであった。
「あまり、嬉しくはございませぬ。それに牟宇は、馬に乗るのは苦手ですし、剣も槍もできませぬ」
「それだけではない」
政宗は、手にしていた杯を牟宇姫に持たせた。牟宇姫が受け取るなり、今度はお山の方から杯を引っ手繰り、なみなみと酒を注ぐ。
「――そなたの使命は何か分かるか、お牟宇」
「仇討ちを果たすことにございます」
「否。それだけではない。……そなたの手は、まこと小さい」
そうだろうか、と首を傾げる。同じ年頃の少女と比べれば、むしろ大きい方だと思っていた。
「そなたが持てるのは、その杯に満たした酒程度じゃ。それとて、両手で抱えてようやっと、という程度。だからこそ、しかと掴め。手離すな。その手に掴んだものを、守り抜く。それが使命と心得よ」
牟宇姫は、目を光らせた。力強く頷き、杯を唇に当て、酒を胸の中に流し込む。
酒が通った喉が、灼けるような熱を孕む。煌々と燃え上がる決意の種火となり、体を侵食して行った。
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