【拾壱】


   *


 曼殊沙華が咲く頃には、牟宇むう姫は粥を自力ですすったり、厠へ行き来したりできるまでに回復した。しかし、ようやく意識を取り戻したおりはまだ立ち上がるのに難儀していた。先日見舞った時には、右足を動かすことができなくなった、と嘆いていた。

 すみはいまだ意識が戻らず、牟宇姫の呼びかけにも応じない。もともと持病があったこと、ほかの2人よりも毒を摂取したことが重症の原因であった。

「すみ……」

 牟宇姫は意識が戻らないすみに呼びかける。

「おりは、里に下がるそうじゃ。体がうまく動かせなくて、館勤めは難しい、と。幸い、おりの故郷は江戸の方らしい。仙台よりも薬師もおるやもしれぬゆえ、また歩けるようになると良いのだが……」

 おりは何度も何度も牟宇姫に頭を下げた。「五郎八いろは様がこのようなことをなさるなどとは思わなかった」と。牟宇姫が事前におりを罰しないよう、お山の方を通じて政宗に頼んでもらったので、特段処罰は下っていない。だが、今回の一件はお家騒動に繋がってくる可能性が否定できない。おりは里下がりという名目で、伊達家を追われてしまったのである。

 おりは、何も悪くない。五郎八姫に従い、はるばる江戸から来てくれた。主人の手駒として、まさか異母妹いもうとに毒を盛らせられるとは夢にも思わなかったに違いない。

 本当は、自分の館に勤めないか、と誘いたかったのだが、それはお山の方に止められた。

「おりを止めていかがするつもりか」

「おりは、わたくしが面倒を見ます」

「お牟宇。そなた、父上の命に背くおつもりか?」

 お山の方は厳しい目をした。

「そなたに、父上に逆らうだけの力がありますか? 覚悟がありますか? あるいは、おりのような者を雇い留められるだけの財があると申すか?」

 問われてしまえば、何一つ申し開きはできない。結局、おりは故郷に帰る以外に選ぶ道はなかった。大した額でもない金子を口止め料として握らされ、伊達家を後にした。

「すみ……また、戻って来てくれる?」

 牟宇姫は青白い乳母の顔を覗き込んだ。化粧をしていないすみの顔を、牟宇姫ははじめて見た。

 紅や眉の引き方のせいで、きつい印象を受けるが、こうしてみると思ったよりも若い。年の頃は、五郎八姫よりも少し下くらいだろうか。まだ年若いこの人が、どうして牟宇姫の乳母になったのか、その経緯を聞いたことはなかった。

「すみ、わたくしはいつもそなたに話を聞いてもらうばかりで……そなたの話を聞いてやらなかった」

 ぽたり、と敷布に涙が零れ落ちる。いつも鬱陶しがって、半分も聞こうとしていなかった。いつだってすみは牟宇姫のことを案じてくれたのに。思えば再会した時から、五郎八姫とは関わるな、と忠告をしてくれた。てっきり、正室腹である姉への嫉妬だとばかり思っていた。

「そなたの仇は、わたくしが必ず――」

 牟宇姫は、すみの肩を撫でると、部屋を後にした。待って、と誰かに呼びかけられた気がしたが、きっと空耳だろうと思い、そのまま自分の部屋に戻った。



 おりのこともすみのことも気掛かりではあったが、侍女達のことばかり気にかけていることはできなかった。ひっきりなしに、家臣や一門衆らが牟宇姫の元を訪れるようになったからだ。

 普段ならば、すみが適当にあしらってしまうような客にも、牟宇姫は努めて対応していた。

 適当な口上を述べながら、牟宇姫はきっと来るだろう来客を待った。

「姫様」

 侍女の告げた名に、牟宇姫は拳を上げるのをぐっと堪えた。

「五郎八姫様がお見舞いにいらしておりまする」

「――お通しせよ」

 こみ上げる熱に水を掛けるように、冷静を装う。乱れかけた髪を撫でつけながら、肩からずり落ちそうになった小袖を肩に乗せる。牟宇姫は傍にいたお山の方にも席を外すよう願った。普段から五郎八姫と親しくやり取りを交わしていることは母も知っているので、それほど怪しまれずに済んだ。

 戸が開く。部屋の中一体に、桃の花が咲いたような香りが広がった。

 雪のような、白い肌。艶めいた烏の羽のような柔らかい髪。腰にまとった曼殊沙華のような艶やかな打掛は、菊の差し色が目を引いた。

 誰が見ても絶世と呼ぶにふさわしい、この世の者とも思えぬ佳人である。二十代半ばにして夫と無理やり離縁されたという不幸な境遇も、この美女の魅力を引き立てる要素の1つに過ぎない。

「牟宇殿、良かった……」

 五郎八姫は、澄んだ鳶色の瞳を潤ませた。

「……ご心配を、おかけ致しました」

 想像していたより、硬い声が出た。しかし、まだ体調が回復していないためだと思われたのか、不自然ではない。

「ええのよ、牟宇殿。まだ、治り切っておられんのでしょう。無理をなさらず、横になられとおくれやす」

 きっと、傍から見れば、五郎八姫は妹を気遣う心優しい姉に映る。実際、これまではそう思っていた。

 牟宇姫が今からすることは、人懐こい笑顔を浮かべ、心配を掛けたことを詫びながら、土産をねだり、なかなか会えない姉に甘えることだ。

頭ではそう分かっていると言うのに。

「――何を図々しい」

 口から出たのは、蛇に憑かれたような音だった。

「……牟宇殿? どうしました……?」

「五郎八様――あなた様からいただいた南蛮菓子、大層なお味でございました」

「南蛮菓子……?」

「おりを通じていただいた、カステーラのことでございます。まさか、あなた様から命を狙われるなどと……思いもよりませんでした」

 牟宇姫は、五郎八姫のことを尊敬していた。長じたら、姉姫のようになりたいと思い、手習いなども努めていた。

 それなのに、裏切られた。両目から、不本意な涙が光り輝く。

「牟宇殿、どないなことですのん? 私には、よう分からしまへんのよって――」

「とぼけるなッ!!」

 牟宇姫の声が響き渡る。五郎八姫は目を白黒とさせているだけだ。今牟宇姫に見せている一挙一動全てが計算の上に過ぎないのだと思うと、殺意すら覚えた。

「毒入りのカステーラのことです! あれを食した後、わたくしは床に伏せました。おりは宿下がりをし、わたくしの乳母に至っては、いまだに目が覚めません!!」

「おりが……宿下がりを……!?」

「言い訳なぞ、聞きとうないッ! ……絶対に、わたくしは、あなたを赦しませぬ」

 涙を拭いながら、牟宇姫は五郎八姫を睨み付けた。

 五郎八姫は一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに唇を引き結んだ。刹那の間でも、悲しみを帯びた姉の顔を見るのは胸が痛み、どうしても気持ちが揺れ動きそうになったが、すみの青白い寝顔を思い出すと、踏ん張ることができた。

 五郎八姫は居住まいを正すと、三つ指を突き、首を垂れた。伸びた鬢が揺れ、腰に巻いた打掛が広がったように感じた。

「……どうやら、侍女の管理が行き届いとらんかったようやなぁ。心より、お詫び申し上げます。侍女の失態は、主である私の責。牟宇殿、そしてすみ殿には、謹んでお見舞い申し上げます」

「なっ」

「今日のとこは、一旦下がりまひょ。牟宇殿もまだ、無理はできひんようやし。ゆっくりお休みになっておくれやす」

「待っ……ってくださいっ」

「まだお話があるんなら、西館の方に使いをおくれやす。私は、しばらくそちらに滞在するさかい。――逃げも隠れもしませんよって。もっとも、私がやったちゅう証拠もなしに、父上も私を処断することはできませへんゆえ、大人しゅうしてるけどよろしいかと」

 衣擦れと、長い黒髪が戸の向こうに消える。真っ赤な打掛が見えなくなっても、牟宇姫は五郎八姫が消えた方角を睨み続けていた。そうでもしなければ、五郎八姫に対し、不敬を詫びたくなってしまうからだ。

(わたくしは、どうあっても姉様には勝てない。……器が、違う)

 牟宇姫は、視線をそっと横にずらした。青藍の空を羽ばたく鶴が目に映る。どうしても遠ざけることができず、そしてこの打掛を見やると、心が和むのだった。

(すみ……そなたの目が覚めた時には、必ずや仇討ちをして見せる)

 そのためには、後ろ盾が必要だ。政宗の、許しが。

 政宗は牟宇姫に声を荒げたことなどない。他の兄弟達が触れてはならぬと恐れる片目について問うた時も、叱られたことはなかった。しかし、だからと言って優しいだけの男ではないことも知っている。

(もしかしたら、独眼竜の手で斬り捨てられるやもしれぬ。……なれど、わたくしは、負けるわけにもいかぬのじゃ)

 牟宇姫は震える掌を胸に宛てながら、息を深く吸い込んだ。

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