第26話 背後にいる影
人肉を食するための工夫がすぐに為された。エドゥアルドはあくまで死体を解体して肉を取り出すだけで、それ以降の工程に拘ろうとしない。疲弊した牧師も同じだ。
医師は料理の心得があるらしく、単に火のそばで焼くだけに留めなかったのである。
例のデモンストレーションの翌日、彼はエドゥアルドから包丁(と呼べるサイズと重さの金属片)を借り、鋼板をまな板代わりにして腸や胃といった部位を細かく刻んでいた。
雪を使って念入りに洗ってから調理しており、できあがったミンチ肉100%の塊はちょうど拳くらいの大きさになっている。岩を集めて作った
遠巻きに見ていた私は匂いに釣られて声をかけてしまう。
「鉄板に焼き付かないの?」
「油を塗ってある」
「油なんてどこから……」
医師は空き缶に入れたピンク色の液体を見せてくれた。嫌に生臭い。
それが人間の脂肪だと気付いたとき、私は後ずさっていた。
死んだ乗客の中には太った者もいたと記憶している。エドゥアルドがバラした中から油を集め、缶に入れたのだろう。
「リエ、そんな顔をするな。生き延びて死んだ人々に報いるんだ」
医師は焼けたハンバーグをトングで掴み、私の前に差し出す。
香ばしくて、いい匂いだった。ミンチにしてあるから元の形なんて判別しようもない。
ゴクリと唾を飲み込んだ。空腹も疲労も限界を超えている。今の状態では資材を集めるために、墜落した飛行機を往復するのすらままならない。
私の中で本能と理性が激しくぶつかり合う。生命を維持するために人を捨てるか、人を維持して生命を捨てるか。二元化した答えに悩めるほど脳にカロリーが供給されていない。
だらしなく、私は喘いでいた。医師は慈愛の表情を浮かべている。少なくともそう見えた。
何重にもボロを纏った下から手を伸ばし、熱く湯気の立つハンバーグを掴もうとした。
普段食べていた肉だって元の動物の形なんて分からない。
家畜を屠殺するときは頭蓋を割り、頭の骨の隙間から針金を入れて脳を破壊する。暴れさせないし不要な痛みは感じさせない。効率的だ。私は、そういう作業をロケ中に何度も見ている。
そういう事実を知らなければ、スーパーに並ぶスチロールのトレイに乗った肉はただの食材だ。命があったなんてリアルから遠い想像だけで終わってしまう。
あのハンバーグになった人は、生きていた。旅なのか仕事なのか、とにかくどこかへ行こうとキルレシアン航空211便に乗っていた。その前は空港のロビーで待っていて、新聞に目を通しながらコーヒーを飲んでいたかもしれない。
とにかく生きていたのだ。それが死という不可逆な状態を経て、肉となった。
いったい誰が、その人の人生の最期は墓から掘り返されてミンチにされて食われるなんて想像しただろうか?
「まぁ、気が乗らないはわかる。しかし体力を蓄えてくれ。フリオの遺した登山道具で、この山を降りられるのはリエしかいない」
こちらの心中などお構いなし。医師はハンバーグを引っ込め、自分で食べてしまった。
その時の顔ときたら、至福そのものに見えた。肉汁を味わい、クチャクチャと咀嚼しては食事の喜びを噛み締めている。みるみるうちに医師の顔は血色が良くなっていった。
『あ〜ぁ、変な意地なんて張らなければいいのに』
「この……っ!!」
振り返るとすぐ後ろに
相変わらずの憎たらしげな笑い方で、オーバーに肩をすくめていた。怒りが込み上げてきて我を忘れてしまう。
スーツ姿の彼の胸倉を掴もうと手を伸ばすと、当然のように透過してしまった。
惨めにバランスを崩し、リカバリできるほどの力も残っていない。
幸いなことに倒れ込んだのが雪の上だったのでダメージはほとんどゼロ。
医師はそんな私に駆け寄って体を起こしてくれる。これでは余計に惨めだった。
「リエ、大丈夫か?」
「……」
「幻覚でも見たのか?」
「見た。死んだダンナの」
一応、厄介な嘘は突き通しておく。与野村くんは芸能事務所のマネージャーというだけで、付き合ってもいなかった。仕事仲間ということは認めておく。実際、それなりに有能だった。頻繁に宗教勧誘しては怒られるというパターンを繰り返していたことを除けば、である。
医師は哀れそうに私を見た。それから紙切れを何枚か取り出す。
「これを見てくれ。覚えている限りの周辺地図を書いた。あと飛行機の荷物から方位磁石も見つけた。それと、リエだと言葉が通じない可能性が高いから助けを求める手紙も」
「何がなんでも私に人間を食べさせたいわけね」
「そうじゃない、あくまでそれはプロセスだ。目的は生き残った我々が無事に山を降りること。そうだろう?」
「人間の尊厳はどこ? ハンバーグにされて食べられた人のも、それを食わされる私のも」
「道徳の話か、哲学の話か、それとも倫理の話か。俺には議論できない」
「ドクターと議論したいわけじゃない。最善策だって理解している。でも感情面で納得できないの」
「リエ……」
私は調理に勤しむ医師を置き去りにして、ベースキャンプの前を通り過ぎて飛行機の墜落現場まで歩く。時間が経ったせいで最初よりは燃料の臭いは減っていたけど、それでも引火の危険性はあった。
天候が急に変わるのも山の特徴で、さっきまで晴れていたのに風が出てくる。
ベースキャンプまで戻るのが億劫になった私は隔壁に開いた穴から機内に乗り込んだ。外よりは大分マシだ。
『ここ、危ないって言ってなかった? 燃料がまだ残っているかもしれないんでしょ?』
「黙って」
与野村くんの幻覚が現れてシートに腰掛ける。ちょうど墜落時に私たちが座っていた場所だ。
一方の私は床に座り込んで立ち上がるための力を蓄えていた。実際、もう絞り出すほどのエネルギーも残っていない。あまりにお腹が減っていたので痩せ細った自分の腕に噛みつき、気を紛らわせた。
次第にうとうとしてくる。このまま寝たら死ぬかもしれない。
幻覚でしかないけど与野村くんと話せば意識を保つことはできそうだ。
『どうしても僕の死体を食べろって言ってるわけじゃないよ。別に他の人のでも構わないし』
「黙ってと言ったの」
『話していないと寝ちゃうでしょ。外よりマシだけどここもかなり寒い。寝たら死んでしまうかも。いや、もう限界なのは僕だって分かるよ』
「……」
『死にたくないでしょ? 僕が死んだ直後はまだ生きる気力あったのに』
「あれは与野村くんへの反発。生き延びるために死体を食べてもいいなんて言われたらウンザリするでしょ。そんなことしないで生きてやるって思った」
『焚き付けることには成功してるんだよなぁ。でも方向性がちょっと悪かった。僕も反省しているさ』
「もう出てこないで」
『リエちゃん、これは幻覚なんだよ。リエちゃん自身が生み出しているんだ。体力がしっかり回復すれば幻覚なんて見ない』
「結局、食べろって言ってるじゃない……」
『まぁ、そうなるね。僕に会いたくないなら』
なんてイヤらしい攻め方をしてくるんだろう。これじゃ生前と変わらない。
こいつの巧みな言葉でどれだけ奇食させられてきたことか……
「ねぇ、与野村くん。聞いてもいい?」
『どうぞ。もう肉体に縛られることもないし、なんでも答えるよ』
「本当に牧師と交渉した? 本当に、私の分の食料を余計にもらっていたの?」
『……うん』
「嘘。英語から現地語に通訳できるのはフリオとドクターだけ。その2人とも私の食事量を心配していた。与野村くんは牧師と直接話せないから、どちらかに話をしていた筈よ」
『だいたいはフリオに通訳してもらったかな』
「牧師は不平等が起こらないように腐心していた。ベースキャンプの秩序が崩壊しないように生き残った人たちに平等を強いていた。だから私の食事を増やしてもらえるわけがない」
『つまり?』
「与野村くんは牧師と交渉していない。自分の食事を減らして私に分けていたでしょ」
返事がない。幽霊はにこやかに座ったままだ。
これは私の脳が認識しているだけで実在していない幻だ。だから真実を答えてくれるわけじゃない。
『それが問題になるのかな』
「そのせいで衰弱が早かったかもしれない」
『単にケガのせいだよ』
「食事が少なくてケガの治りが遅かった」
『あんな大怪我は、こんな場所じゃ治りっこない』
問答するつもりはないらしい。実に腹立たしい男だ。
「どうしてなの」
『さぁ、どうしてだろうね』
「ワケがわからない。死にたかったの?」
『ねぇ、リエちゃん。どうしても知りたいなら、この山を降りよう。そうしたら教えてあげるから』
気に入らなかった。
弱りきって、こんな幻影を見る自分が腹立たしかった。
どうやっても人肉食を正当化したいらしい。誰でもない私の本能が、そうやって理性を蝕んでくる。
『全てのものは繋がっていて、全てのものは変わり続けていて、その中で多くの脅威からは逃れられず、最後には必ず命の輝きを失う』
「またそれ?」
『今はまだ死なないで。本当に、それだけなんだ』
与野村くんの幻覚は消えた。
私に死なないで欲しいだけで、そんなことができるものなのだろうか?
自分が死ぬのも構わず食料を分けて、死んだ後でも糧になろうとする。
そんなことが、ただのマネージャーにできるのだろうか……
私は意識が保てなくなって飛行機の中で倒れた。
あとでドクターが発見してベースキャンプまで運んでくれなければ、私はそのまま凍え死んでいたのに。
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