第25話 分離

 全員の合意は得られないままだった。しかし、医師の予言通り、飢えには勝てないという空気に支配されている。寒さと空腹で幻覚を見えるのは私だけでないらしい。

 最悪なことに、私は死んだ与野村よのむらくんの姿を見た。こんな雪山なのにスーツ姿の彼は後退しつつある前髪を気にして額を撫でていた。そして「あ、いたの?」みたいな顔でこっちを向いて手招きしてくる。

 意識が朦朧としていて、迂闊に踏み出してしまった。足場の悪いところまで誘導されてようやく我に返ると、あとちょっと進んでいたら滑落したという事実に気付く。

 与野村くんの幽霊は空中に立っていた。遺言状では私に生きろと言っておきながら、殺すつもりか! 全く!

 

 それとフリオの幽霊も見た。

 でかい図体で膝を抱えて彼は泣いていた。今際の際と同じく、奥さんと子供の名前を何度も呼んでいた。フリオの後頭部はパックリと割れていて、その内部は深淵が広がっている。

 死んでなお傷を残し、この世への未練に縛られているのだろう。

 幻覚だと分かっていても私の気持ちはさらに沈んで、近いうちに向こう側へ逝くのだろうと震え上がった。

 そんなときだった。医師から声をかけられたのは。


「リエ、手伝ってくれ。他にも2人ほど手を貸してほしい」


 私と医師と中年男2人の計4人で墓を掘り起こした。勿論、最終的な手段に出るためだった。反対するだけの気力を持っている者はいない。

 こんなことをするなら最初から埋めなければよかったと後悔してしまいそうだ。けれど埋葬することで死者の尊厳は保てていただろう。

 それを剥ぎ取った私たちは何者なのだろう?

 2時間ドラマで死体を山に捨てて埋めるシーンがあるけど、実際は墓穴が浅いと獣に掘り返されてしまう。この標高では動物がいないからその点は心配ない。

 遺体は寒さのせいで鮮度が保たれていた。勿論、もとのままじゃない。

 皮膚は変色して水膨れになっている。顔は醜悪で見れたものじゃない。ホラー映画のゾンビはわざと怖く作ってあるが、この場合は怖いんじゃなくて申し訳なくて直視できなかった。

 布に包んで隠し、猟師のエドゥアルドのところまで運ぶ。4人で布の隅を掴んで足場の悪い中を転ばないように気を付けた。これだけの作業で既に限界が近い。


 それにしても、死んだ人間を食べて飢えを凌ぐなんて現代の話だなんて思えなかった。

 大航海時代にあった海難事故を彷彿させる。あれは確か『メデューズ号のいかだ』だったっけ?

 ロケに行ったパリのルーブル美術館に絵画が飾ってあった。軍艦が沈んで、生き残った人たちが筏で漂流して、その上で死体を食べたという悪趣味な実話だ。

 ルーブルにあった絵は、作者が生存者にインタビューし、いかだの模型を作って死体の位置まで確認してから描いたと説明を受けた。食人をした人間にインタビューして作品を仕上げるなんてまともな思考じゃない。そいつの正気もまた疑いたい。

 私の『奇食ハンター』シリーズの中では上位に位置するまともな行先だったけど、フランスの街中でピンク髪の日本人が奇声をあげてテレビ撮影している様は酷かったと思う。


 風を遮るための急造タープがバタバタとはためき、その下にエドゥアルドがいた。寡黙な老人で、幾重にも深く刻まれたシワと太い眉、それに長い髭が特徴的だった。

 遺体を運んだ4人のうち、私と医師だけがタープの中に残った。あとの2人はさっさとベースキャンプに戻ってしまう。

 エドゥアルドはモゴモゴと何か喋ったが現地語なので私には内容が分からない。

 医師はわざわざ翻訳してくれる。


「解体を見ていくのかと聞いている」

「……ドクターは?」

「俺が言い出したことだ。その責任がある。エドゥアルドだけに負わせたくない」

「じゃあ、牧師は?」

「彼は……ダメだ。とうに限界を超えている。こんな極限状況で食料の奪い合いや仲違いを起こさないように必死にやってきた。それに彼は『例え命を落とすことになっても人間は食べない』だそうだ。あと自分の遺体は食べないでくれと懇願していたな。神の元へ行けなくなるらしい」

「最後の最後で足並みを乱すのね」

「責めないでやってくれ。一番、働いていたリエが食料配分で不満を持っているのは知っている。しかし、そうしなければベースキャンプで暴動が起きていた。みんながキミほど強くはないんだよ」

「私だって弱い。いっそ、ドクターがリーダーになればよかったのに」

「俺にはそんな余裕も人徳も無かった。怪我人の治療で手一杯。こんなこと考えるべきじゃないが、最初の墜落で死ねていればどれだけ楽だったか……」

「……」


 死体を包む布が捲られる。エドゥアルドは研ぎ澄ました金属片を取り出し、もう一度、何か呟いた。どうやら私に「見ないほうがいい」と忠告してくれたらしい。

 私はドクターを通して「ここに残る」と伝えた。

 猟師の老人は特に追い払うつもりもないらしく、刃の手入れを始める。


 銀色の光がタープの中で閃いた。

 まるで手術だ。ただの金属片がメスに見えてくる。

 エドゥアルが遺体の上にスーッと線を引き、

 変色した筋組織が露わになって地面へ体液が流れ落ちた。白いのは脂肪だろうか?

 腹部に指を突っ込むと「グチュ」と水音がして、ひと繋がりの腸やら胃やらが引き抜かれた。雪の上にそれらを並べ、適当な長さでカットして次々と人間の中身を取り出していく。

 小学校の頃、理科室に置いてあった人体模型を思い出した。男子が内臓を取り外してケタケタ笑っていたけど、実物でそれをやったらどれだけ冒涜的になれることか。


 臭いは風に流されていくものの、近くに立っていると鼻が曲がりそうだった。

 治安の悪いスラムですらこんな臭いはしない。墓場の臭いともまた違う。病院から消毒液の臭いを差し引いたらこんな感じかもしれない。


 エドゥアルは淡々としていた。

 弾力を失った心臓を取り出したときだけ少し硬直し、また何事も無かったかのように解体作業へ戻っている。

 食べられそうな部位を見極めているのか時折、考えるような仕草も見せた。

 刃物は何本も用意していたのか切れ味が鈍るとすぐ新しいものに変えている。


 ある程度、バラバラになったら残った皮を剥いでいった。

 太ももは特に肉があるから丁寧に削ぎ落としている。

 徐々に人だったものが、食料へと変わっていった。


 色々な場所へロケに行った。そのとき、ヤギの首を剣で切り落として生贄にしてから食べる地域もあった。何度も太い首に刃を振り降ろされ、血を噴き出して絶命していく動物に当時の私は絶句した記憶がある。動物は殺されるとき、悲しそうな断末魔をあげるのだ。

 その強烈なインパクトと比較すると今の絵面はなんとも地味で恐ろしい。暴れることも叫ぶこともせず、ヒトが肉になっていく。

 いや、もしも生きた人間を殺して食べるような場面だったら……もっとひどいか。


 老いた猟師はある程度のところまで解体して手を止めた。エプロンをしていたが既にどす黒い液体まみれになっている。

 医師は無言のまま肉片を拾い集めて袋に入れた。

 一連の作業を見守っていた私は強烈な吐き気に襲われる。


「俺が最初にみんなの前で食べる。そうしないと示しがつかない」

「……血抜きもしていなかったし、何より

「臭みを消す調味料がないのは分かっている。火で炙って食べる。火があるだけマシだ。大航海時代じゃ、海難事故に遭ったいかだの上で人喰いがあったっていうんだ。それから比べれば……」

「メデューズ号ね」

「詳しいな」

「前にルーブルで見たの」

「そうか」


 内臓をごっそり取りだされ、肋骨が露わになった死体に手を合わせた。

 現実味がなくて人形のように思えてしまう。

 同時にひどい飢餓感に神経を掻きむしられる。


『僕の方が食べやすいよ?』


 幻覚の与野村くんは、死体を挟んだ反対側に立ってボソッと呟く。

 この男はどこまでも分からない。いや、違うか。

 私の中でイメージする与野村くんを幻視しているだけだから「食べやすい」なんて台詞は自分の奥底から出てきたものだ。

 彼はもう死んでいる。私が埋めた。


「準備をしよう。こんなに気が重い晩餐は初めてだ」


 医師は肉の詰まった袋を持ってタープから出ていってしまった。

 残された私はエドゥアルド老人を一瞥する。

 髭をモゴモゴ動かしながら何かを呟いていた。牧師がよく口にする短い祈りの言葉だった。

 神からゆるしをもらいたいのか……


 結局、その日の夜に医師は予告通りデモンストレーションを披露した。

 切り取った肉を串で刺し、火に炙って焼いて食べた。医師は生き延びることの大切さを、自分に言い聞かせるように皆に説いた。

 誰も医師と目を合わせようとしない。下を向いて黙っている。食人をすぐに割り切れなんて無理な話なのだろう。


 けれど、私はもっと別のことを考えていた。

 久しぶりに嗅ぐ肉を焼く匂い。

 それがなんとなことか!


 ひび割れた唇に涎が滲んでしまい、誰にも見られたくなくて指で拭った。

 私は人間焼肉を前に必死に堪えていた。

 医師に飛びついて串ごと奪い取ってやりたいという気持ちを抑えた。


 しばらくして、いい香りに耐えきれなくなった中年男2人組が串を取った。

 それに老女が続いた。クチャクチャと固い肉を咀嚼する音だけが妙に耳に響く。

 私とエドゥアルドと牧師は、その日の最後まで耐えて人間の肉を食べなかった。


 就寝時間になっても匂いは鼻に残っている。

 こんなのが何回も続くなんて、頭がおかしくなってしまいそうだ。お腹と背中がくっ付き、唸りを上げる。

 与野村くんの幻覚がまた現れて「我慢しなくてもいいのに」と呆れ、怒って追い払うと彼は満点の星空に吸い込まれる。


 その上を天地方向が逆さまになった筏が夜を滑っていく。与野村くんが筏にぶつかると、絵の具をぶちまけたみたいな赤黒い斑点に変わった。同じ色のグロテスクな塊が筏の上にはいくつも転がっていて、性別も年齢もバラバラの乗組員たちは獣のように4本足で這っていた。

 それがメデューズ号だと理解した途端に、私は自分の頬を思い切り殴って意識を断ち切った。

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