第22話 白銀の死の世界

 飛行機には乗り慣れていた。『奇食ハンター』のロケで世界中に飛んだからだ。

 そんな私だから異常にはすぐ気付く。雲間から白と灰色の切り立った山が見えたとき「近すぎる」と思った。

 それから数秒後には飛行機は山肌に衝突して、落ちてしまったのである。

 衝突といっても斜面に沿って当たったという感じがして、例えるならゴツゴツした斜めの滑走路に着地したようなイメージだ。

 その時の衝撃には言葉を失って、死ぬのを覚悟した。機内は激しく揺れ、機体が跳ね上がると天井に叩きつけられた人もいたくらいに。

 墜落の衝撃で機首部分は大破してしまい、機長と副操縦士が即死した。一方で客室乗務員と乗客の大半は生きていた。

 けれど最初に死ねたのは幸運だったと思う。地獄が始まったのはそれからだ。


 南米の標高4,000メートルの雪山。

 その上に取り残されてしまったのである。

 最初の数日で生き残った人の半数は死んでしまった。怪我が原因だったり、寒さが原因だったり、そのどちらかである。

 山肌の窪みを利用してビバークして、風を凌いだ。

 燃えそうなものをありったけ集めて火を起こした。暖を取ると少しだけ生き返った気がしたけど、それも気休めみたいなものだ。


 電気技師だという男はコックピットの通信装置を直そうとしたがグシャグシャに潰れた上に電源が無くて諦めていた。

 医師だという男は自分の服を破いて止血帯を作り死にゆくものを懸命に手当てして励ました。

 牧師だという男は十字の印を切って死者を埋葬し祈りを捧げた。


 私は英語ならそれなりに理解できたけど、現地語はさっぱりだった。もちろん、英語を話せる人もいたけど。

 だから牧師の祈りが私の知らない言葉で語られているのを見ると他人事のように思えてしまい、そんなことをする暇があるなら助かる方法を見つけるべきじゃないかと日本語で怒鳴りたくなってしまった。


 墜落から数日は持ち合った食料で凌ぎ、寒さに震えながらも「大丈夫、助けがくる」とギリギリ前を向いていられた。たまたまラジオを持っていた乗客がいて、ニュースを聴くことができたけどやっぱり現地語だった。

 英語に翻訳してもらって半分くらいは理解できたけど、墜落事故で世間は騒ぎになっているらしい。

 それなのに一向に私たちは発見されなかった。

 一度なんて、戦闘機が山の上空を通過したのに。


 ラジオの電池もそんなに長持ちせず、とうとう外界との情報すら途絶し、食べるものも無くなってきた。1日ひとりのペースで死人が増えてゆき、雪の下に埋葬をしていった。

 簡素な墓地には飛行機のフレームから作った十字架が刺さっていた。もしも私が死んだら、あの下に埋められるのだろうか?

 宗教にまるで興味なんてないけど一応は仏教徒だ。ご先祖さまのお墓もお寺さんにある。どうでもいいことだけど。


 私は体力もあったし、多少なりともサバイバルの知識(これもテレビ番組のおかげだ。不本意だけど)を持っていたので、墜落した飛行機から使えそうな資材を集めることに奔走した。

 ただの穴蔵に過ぎないベースキャンプから墜落現場までは急な斜面を降りなければならず、そのあとは荷上げしなければいけなかった。雪が積もった日はラッセル車みたいにかき分けながら進む必要があって、体力の消耗が激しかった。


 飛行機は斜面の下へ機種を向けていたけど、先端部はひしゃげていて降りるのは後部のドアから。翼は折れていて右側しか残っていない。

 内部は天井と壁があるから外よりは過ごしやすかったけど燃料の臭いが未だ充満している。

 だから、多少の温かさを捨ててでも離れた場所でビバークしなければならなかった。何かの拍子に引火したら大変だ。

 それは、こうやって使えそうなものを回収しに来ている私にも言える。寒さで凍えて死ぬより焼け死んだ方がずっと痛そうで嫌だ。

 白銀の死の世界で、炎の恐怖が頭の中をチラつくのはなんとも理不尽だ。けれど壁面の断熱材やシートの布地は寒さを凌ぐのに必要だった。

 こうして私は仕事を終えるとベースキャンプに戻る。


「おかえり、リエちゃん」


 日本語で出迎えてくれたのはマネージャーの与野村誠よのむらまことくん。

 もともと色白だけど今は輪をかけて白い。年齢の割にオデコが広くて生え際がちょっと怪しい。

 私は「ただいま」と短く返して、担ぎ上げてきた布やら鉄やらを資材置き場に積んできた。

 洞穴なんて表現したけど、斜面の抉れた部分にちょっと掘り込んだ程度のものだった。風向き次第では外と寒さは変わらない。

 与野村くん以外にも、端切れで作ったコートを着込んで座っている人たちが何人もいる。その人たちは私を一瞥するだけ。目からは深い絶望が読み取れる。

 今日は珍しく無風で穏やかな天気だけど、風が吹いた日にはまつ毛が凍ってしまう。そんなときは絶望の色さえ見えなくなってしまうのだ。

 かくいう私だって絶望している。何日もお風呂に入っていない。死ぬ恐怖よりも、なんだか汗臭い死体になって発見される方が怖い。

 あれ? 死体って腐るから汗よりもひどい臭いなんだっけ? でも寒いから腐らないかもしれない。あたり一帯は天然の冷蔵庫みたいだし。

 エベレスト登頂で亡くなった登山家の遺体をネットで見たことあるけど、あれは乾いてミイラみたいになってたなぁ……

 それに雪の照り返しで日焼けしてしまって顔がヒリヒリしている。目も痛めたと思う。


「大丈夫? 疲れた?」

「平気」


 与野村くんの隣に座る。地面にお尻を付けると体温を奪われるから、廃材から椅子を作っておいた。でも快適とは程遠い。

 最悪に最悪を重ねた状況を、最悪で塗り固めて最悪をトッピングしたみたいだ。


「ご飯食べる?」

「パサパサの乾パンみたいなやつ?」

「リエちゃん頑張っているからね。牧師さんと交渉して多めにもらったんだ」

「怪我している人や衰弱している人じゃ無理だからやっているだけよ。それよりも与野村くんが食べればいいじゃない」

「1番カロリーを消費しているのはリエちゃんだ。食べるべきはリエちゃんだよ」


 弱った笑顔でそう言われても困る。

 そもそも祈る以外の仕事をしない牧師がリーダーとして配給を決めているのがおかしい。もし、与野村くんが交渉しなければ非常事態にも関わらず「平等」という旗のもとに同じ量の食事しか配らなかっただろう。だいたい「平等」なんて平時だってまともに機能しないじゃない?

 みんなの不安を和らげる役目は大きいと認めているものの言語の壁は高く、牧師の説教が何を言っているのかわからないので良い感情は持てなかった。


「生きて帰れると思う?」

「当たり前さ。リエちゃんもラジオで聞いただろ? 空軍がボクらを探してくれているんだ。もうちょっとの辛抱だよ」


 その空軍機というのは私たちの頭の上を素通りしたじゃない?

 ラジオだって現地語だったから内容はちゃんと理解できていない。英語ができる電気技師の人が通訳してくれただけ。もしかしたら捜索は打ち切られたとか話していたのかも。だってニュースを聞いていた他の人たちはひどく落胆していたもの。


「与野村くんが生きて帰れるのかって話をしているの」

「無理じゃないかな、かなり弱っているし、自力で動けないし」


 呑気に「ははは」って笑うと彼は自分の脚を指す。「引き抜くと出血する」という判断から、太ももに突き刺さった鉄片がそのままになっていた。墜落の衝撃で飛んできたのである。不幸中の幸いで太い血管は無事だったらしい。

 赤く染まった肉が盛り上がって固まり、とてもではないが歩けなかった。

 与野村くんが受けた傷はそれだけじゃない。破片は脚以外にも刺さっている。コートで隠しているけど、その下は怪我だらけなのだ。

 乗り合わせていた医者はちゃんと診てくれたと言っているけど本当かと疑いたくなった。

 どこの国だって本質的には異邦人に冷淡だ。それがこんな非常事態ともなれば顕著になる。


 テレビ映えするようにと染めたピンク色の前髪を摘み、私は生き残りの乗客たちの方を見る。彼らは決して目を合わせようとはしない。自分のことで精一杯なのだ。苛立ちが募って髪を捻る力が余計に強くなる。


「リエちゃん、リラックス。リラックスだよ」

「自分が死にそうなのにホント呑気ね」

「脳を鍛えているからね」

「またそれ……」


 この男は新興宗教にハマっている。事務所で勧誘なんてやったもんだから、私の最初のマネージャーだった羽間はざまさんにも怒られていた。それでも懲りていないらしい。


「鍛えられるわけないでしょ。それとも与野村くんの脳みそは筋肉なの?」

「鍛えられるよ。2000年以上も前の話だけど、インドにはゴータマ・シッダールタという若い王子がいた。出家した彼は何年もの苦しい修行を経て自分と向き合い、菩提樹の下で『悟り』を開いた」


 また始まった、と普段なら呆れて話を遮るところだ。

 けれど今の与野村くんは本当に弱っている。喋ることで体力を使うけど、言いたいことがあるなら止めてはいけない気がした。


「それってお釈迦様のこと?」

「そうだね。ブッダだね」

「それと脳を鍛えることと何の関係があるのよ?」

「現代的な観点から見れば『悟り』とは、鍛えられた脳にしかなし得ない領域にあるんだ。自分の心を覗き込み、苦しみとその原因を取り除くなんて普通に生きていたら会得できないからね」

「念仏を唱えていればいいってことかぁ」

「ちょっと違うかな。信仰の話じゃなくて、脳の使い方の話なんだ。脳をトレーニングするための瞑想があってね……」


 そこから長い話が続いた。スピリチュアルな内容で、私にはどうにもうまく理解できない。実家が青果店をやっていて、商売人である両親を子供の頃からずっと見てきたから、どうにも利益重視な考え方をしてしまう。

 与野村くんが満足ならそれでいい気もする。彼は本当に弱っているから。


「なんだか難しいね。私には無理そう」

「そんなことないって。リエちゃんも煌煌館こうこうかんに入ってくれれば、きっと分かるよ」

「またそうやって勧誘する…… そもそも与野村くんは『悟り』を開いているの?」

「まだその域に達していないかな」


 それだけ怪我をして平然としていられるのだから悟っていると思う。

 ぶっちゃけ、与野村くんの落ち着きから比べればリーダー格の牧師がひよっこに見えてしまう。


「その域に達していないなら死なない方がいいでしょ。生きてここを降りるの」

「リエちゃんひとりなら降りられそうだけどね」

「無理。食料も装備も足りない。数日分の……できればタンパク質と、携帯できるサイズのテントと防寒具が必要。水は雪を溶かせばなんとかなる」

「防寒具とテントは飛行機の廃材から作れそうだけど、食料はもうどうしようもないかな……」

「まさに白銀の死の世界ね。植物も動物もいない。食べられるものがない」

「動物ならいるじゃないか。哀れな人間がたくさん」


 そう言って与野村くんは、座り込む人たちを励ます牧師を指した。

 人間を動物扱いするか否かは国によって考え方が異なる。日本だと割と動物扱いしてしまうけど、西洋ではヒトと動物は別物だとされていた。


「いっそのこと人間でも食べる? 生き延びるために」

「ははは、そりゃいいかもね。リエちゃんが死ななくて済むならそうして欲しいよ」

「冗談に決まってるでしょ」


・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・


 それから数日が経って、与野村くんが亡くなった。

 馴れ馴れしくて彼氏ヅラする変な奴だったし、結構な迷惑を被られた。

 でも不思議と嫌いじゃない。そんな与野村くんの遺体を埋葬するとき、彼のポケットからメモ書きを見つけた。


 遺言状だった。

 私はそれを握り締めて、死ぬわけにはいかないと誓った。

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