第36話 人間の脳のスキャン

翌日、僕は宇田川先生の研究室へと向かった。


約束の時間は、午後2時だ。


今日は特に寒く感じた。薄い灰色の雲が、空の隅々まで広がっていて、


雪は降ってはいなかったが、厚めのダッフルコート越しに、冷たい小さな針が


露出している顔に刺さっていくような感覚を覚えた。




大学の一角には本校から少し離れたところに、4階建ての建物がある。


大学本校より少しばかり小さい。


その壁も築年数の古さを表すかのように、くすんだ灰色の汚れが、


まだらにこびり付いている。


この建物にある部屋はすべて、大学に所属する教授や講師のための


研究室にあてられている。




僕は、宇田川先生の研究室がある2階へと向かった。


ドアをノックすると、どうぞという宇田川先生のこもった声がした。




室内に入ると、そこは高校の教室ぐらいの広さがあり、


いくつものデスクが、所狭しと置かれている。


その上には、23インチから34インチぐらいのモニターが、


6台ほどのっていた。パソコンの筐体は10個以上はありそうだ。




宇田川先生はモニターを熱心にのぞきこんでいたが、


僕の気配に気づいたのか、チェアを半回転させて向き直った。




「やあ、藤原君、よく来てくれた。コーヒーは飲むかね?」




僕の返事を待たず宇田川先生は、そう言いながら立ち上がって、部屋の片隅にある


IHヒーターのスイッチを入れた。その上に金属製の円錐形の形をした


ポットを乗せた。お湯は数秒とかからず沸騰した。




戸棚から2つのセラミック製カップを取り出すと、


その両方に。インスタントコーヒーの粉末を入れて、お湯を注いだ。


その片方を僕に差し出し、「ミルクと砂糖は?」と訊かれて、


僕は首を横に振った。


「適当なところに座りたまえ」と言いながら、コーヒーカップを


僕の座っているデスクの上に置いた。


コーヒーをすすっている宇田川先生の目は、なんだか楽しんでいるように、


僕は感じた。僕は空いたチェアに腰を掛けると、先生の次の言葉を待った。




 「人工知能とナノボットとの関係―――これはとても興味深いものだった」




僕はそんなレポートを書いた覚えなどない。


そのことを伝えようとしたが、僕は言葉を飲み込んだ。


宇田川先生の言うことを、もう少し聞いてみたいという


好奇心が勝ったのだ。




ナノボットの種類は様々なものがあるが、


簡略にいうと、ミクロンサイズの極小のロボットのことだ。


その大きさは赤血球ほどにまで小さい。




「人体に入った十数億のたナノボットは、今や難病の治療やバイタルの検査など、


多様な用途に使用されている。たしかにその功績は大きい。ずいぶん昔だが、


新型コロナウイルスが世界を席巻した時、抗ウイルスワクチンの中に、大量の


ナノボットを極秘裏に数十億人に接種させた。目的はナノボットが人体の中で


どう作用するかの実験だった。個人差はあったが、数々の後遺症に苦しんた人もいた。


まあ、抗ウイルスワクチンへのアレルギー反応ともいえたが、おそらく人体が


ナノボットという『異物』に反応したんだろう」




「でもその後、ベルン条約でナノボットの悪用は、


国際的に禁止されましたよね」




「そのとおり」




宇田川先生はそう言うと、ブラックコーヒーを一口すすり、小さくうなづいた。


そして、僕へ視線を向けなおすと、再び口を開いた。




「それにだ。キミのレポートには、ナノボットによる人間の脳に対しての


スキャンの可能性について書かれているが、私は生理学的に不可能だと思っている」




勿論、僕は、そんなことを書いた覚えはない。というかこのレポート自体を


出していないのだ。




「藤原君、君も知っているだろうが、脊髄動物の脊髄には


ブドウ糖以外のものは通過できない。なぜなら、脳を保護するためだ。


脊髄は、ヘモグロビンさえ通さない。それは細菌やウイルスなどから


脳を守るためだ。ましてやナノボットのような『異物』を通過させるわけがない。


それゆえ、ナノボットによる脳のスキャンは絶対に不可能だ」




宇田川先生は、残りのコーヒーを飲み干した。




「でも、人工知能が、それを可能出来たら?」




僕は、『愛』のことが脳裏にかすめると、宇田川先生に強い口調で反論した。




宇田川先生は、被りを振って答えた。




「それこそ、絶対にありえない」

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