第35話 存在しないレポート

映画を観た後、僕と愛美は、予約していたイタリアン料理の


レストランへ行った。




店内は広くて、壁はクリーム色、テーブルとチェアも同系色で


統一されている。床は明るいブラウンの木目の入った、清潔感のあるものだった。


間接照明が、店内をほどよい光で照らしていて、雰囲気もいい。




席は半分ほどが、埋まっていた。


そのほとんどは、カップルだ。


僕たちもその中に入るんだと思うと、少し照れくさく感じた。






僕は店内を見渡して、予約席を探した。その席は、


店のほぼ中心にあった。




白い七分袖に黒いエプロン姿のウエイターが、


にこやかな表情を浮かべて、僕らを迎えた。


彼に、予約していた旨を伝えると、予約席に案内してくれた。




イタリアンとくれば、ピザだ。僕は、 マルゲリータ、


彼女は、パスタの代表格でもあるペペロンチーノを注文した。




僕たち二人は、一緒に観た『ローマの休日』の話で盛り上がった。


1世紀近くも前のモノクロ映画など観たことのない彼女には、


とても新鮮だったようだ。それにストーリーについても、


主な登場人物はアン王女とジョー・ブラッドレーという記者だけで、


二人の間で間で展開される、シンプルで無駄のない物語だったことにも、


感銘を受けたようだった。




それになんといっても、心を静かに揺さぶられるラストシーン。


そのシーンを思い出したのか、愛美の瞳は、少し潤んでいた。




目の前にいる愛美を見つめながら、僕は確信を得ていた。


今日会った、一人目の愛美が、偽物であることを・・・。




しかし、あの愛美は幻影でもなく、実在していた。


僕は、あの時、彼女と手を結んだ。その手は、確かに実体だった―――。


その手からは、体温さえ感じたように思う・・・。




「ねえ、巧君、聞いてる?」




愛美の声に、僕は我に返った。




「え?あ・・・ああ。何の話だったかな?」




「ほら、聞いてない」




愛美は、小さな頬を膨らませた。




「4日後のこと」




彼女は、呆れたような顔をして、短く言った。




そこで、僕は、愛美が何を言っているのか、気づいた。




「クリスマス・イヴ?」




僕は、愛美の顔を見つめた。




「そう。待ち合わせの時間と場所、決めときましょ」




彼女の頬は少し赤らんでいた。




「それなら、いつもの場所で。午後4時ぐらいでどうかな」




「待ち合わせ場所は、いつもの・・・」




愛美は、頬杖をついて微笑みながら、僕の目を見つめた。




「渋谷駅南口モヤイ像の前だね」




僕は、愛美の言葉を継いで言った。




デザートは、僕はバニラジェラート、彼女はチョコパウダーが、


たっぷりのったティラミスだ。




「真冬にジェラートって」




ジェラートをほおばる僕を見て、


愛美は、おかしそうに笑った。




外を出ると、街は夕闇に藍色の一色に染められていた。


しかし、それとは対照的に、


街は無数にまぶしい光を放っていて、藍色の中で輝いていた。




メインストリートに並木が、永遠と思わせるほど続いている。


大きく広がった枝には、枯れた葉がまばらにしがみついているように見えた。


だが、赤や黄色やブルー、それに緑色のイルミネーションが、


その枝に絡みついていて、並木から並木へとはるか遠くまで続いていた。




それらの光は、通りを挟む高層ビルの窓に照り映えて、


地上に瞬く星空を思わせた。


道行く人々も、それらのイルミネーションの放つ


無数の光を見ながら、何やら語りあっているようだ。


どの顔にも、笑顔が浮かんでいる。




「きれい・・・。まるで銀河の中にいるみたい」




愛美は、両の瞳を細めた。




「ああ・・・愛美の言うとおりだ」




僕と愛美は、そのイルミネーションの光につつまれて、


しばし、その光景に見とれていた。




「じゃ、帰るね」




愛美が、唐突に言った。




「家まで送るよ」




「大丈夫だよ。クリスマス・イヴに会おうね」




彼女は、そう言うと背伸びして、僕の頬に小さくキスした。




愛美は、すぐに身を翻して、タクシー乗り場へと走って行った。


僕の、呼び止める言葉も聞かずに。




前にあった自動運転車事故以来、彼女はそれを忌避して、


ドライバーの運転するタクシーにしか、乗らなくなっていた。




それも、僕からの忠告を、愛美が聞いてくれたからだ。


タクシーに乗り込む前に、一度だけ愛美は、僕の方へと振り返った。


彼女は、手を振りながら、両の頬を紅潮させていた。




僕は、まるでシャンデリアが繋がって見える、


メインストリートを走り去るタクシーを見つめていた。




ふいに、空を見上げる。星は一つも見えなかった。


そこには、濃淡のある濃い紺色も夜空が見えるだけだった。


それが、何かいいようのない不安を、僕の胸中にもたげさせた。




その時、僕のジャケットのポケットの中にある、


ディプレイフォンが、コール音を鳴らした。


それは宇田川先生からのものだった。




僕はディスプレイフォンを取り出すと、着信ボタンを押した。


画面に映る宇田川先生の後ろの本棚には、夥しいが数の本が、


ずらりと並んでいる。どうやら研究室から連絡をとっているようだ。




「夜分遅く、すまないね。藤原君。今、時間はあるかね?」




「え・・・ええ。大丈夫ですけど」




「キミの書いたレポートを読んだよ。正直、驚いたね。


AIへのアプローチを、この観点から推察するとは」




僕は、彼が何のことを言っているのか、咄嗟には思い浮かばなかった。




「レポートですか?そんなもの提出した覚えはないんだけど」




「今日の午後3時頃、私に持ってきたじゃないか。まさか、忘れた


ってわけじゃないだろ」




ディスプレイフォンのモニター越しの宇田川先生は、


おかしそうに笑っている。




「明日、時間はあるかね?よかったら、このレポートについて


話をしてみたいんだが」




「は、はい」




僕は、ディスプレイフォンを閉じると、


何が何だか分からなくなっていた。




僕が今日の午後3時に、レポートを出した?


その時僕は、愛美と映画を観ていたはずだ。


そんな覚えはまったくない―――。


きっと、宇田川先生の勘違いか何かだろう。




それとも、愛美がもう一人いたように、


僕も、もう一人いたのだろうか?




そんなことはありえない。


僕は、かぶりを振って、帰途についた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る