第5話 突然の出来事

退屈な講義の中、僕は例によってマイクロイヤホンで、


『愛』と会話を楽しんでいた。




でも頭の片隅で、小さな疑問があった。


昨日、山倉たちにからかわれた後、


確かに『愛』をオフにしたはずなのに、


彼女は言っていたのだ。




『巧君のことバカにして。それに私のこと変わり者だって』




オフにしているときは、『愛』は起動していないはずだ。


なのに、その後の音声を聞いている。


ただ、その時はプログラミングのバグだと思って、


あまり気にしないようにしていた。




その時だった。僕が『愛』とおしゃべりを楽しんでいる最中に、


ふいに隣りから話かけられた。




「あの、『シンギュラリティ概論』を読んでるんですか?」




僕は驚いて、声の主を見やった。




それは見たこともない女子学生だった。


おそらく、今年入学したばかりの学生なんだろう。


それ以上に心底驚いたのは、彼女が『愛』に


そっくりだったからだ。


僕は幻覚を見ているのかもしれないと思い、


何度も目をこすった。


でも、彼女は現実に存在していた。




「その本って、すごく難しいですよね。


あたしも挑戦したんですけど、半分も理解できなかったんです」




彼女は可愛い苦笑いを浮かべた。




幻覚でも錯覚でもなく、現実に存在する女の子だと、


僕はやっと確信した。






僕は何か返事しなくてはと思い、


ぎこちない口調で答えた。




「え、そ、そうなんですか?」




僕はどう対応していいのかわからず、


ぎこちなく答えた。だって、今まで


女の子の方から話しかけられたことなんて


なかったから。






シンギュラリティとは技術的特異点といって、


米国の数学者ヴァーナー・ヴィンジが唱えた説だ。




彼女の言う通り、大昔に出版された本で、


その荒唐無稽ともいえる説だとして、


今では、これを読んでいる人は少ない。




「あ、言い忘れました。あたし杉下愛実まなみといいます。


今年入学したばかりです。お名前訊いていいですか?」




「あ、あの藤原巧っていいます」




僕は、なけなしの勇気を出して言った。




「あたし後輩なんですから、敬語使わないでください」




愛美と名乗った彼女は、くったくのない笑みを浮かべた。






その日の昼休み、僕は倉田たちを避けて


キャンパスの中庭に行った。


一面は芝生で覆われており、いくつかの白いベンチがあって、


大きな広葉樹が1本立っているだけの、


気分の和ませてくれる場所だ。




僕はそのベンチの一つに座って、


『シンギュラリティ概論』を読んでいた。




「藤原先輩、こんにちは」




読書に専念していた僕は、名前を呼ばれて飛び上がった。


声の主を見ると、さっきの講義中に話しかけてきた


杉下愛美だった。




「隣、座ってもいいですか?」




「あ、はい」




「また敬語を使ってる。藤原先輩」




杉下愛美は、小さく笑った。




正直言って、僕の心臓は跳ね上がっていた。


AIの『愛』とは違って、本物の人間だ。それも美少女。


僕は勇気を振り絞って、彼女に尋ねた。




「あの、僕に何か用?」




「用がなかったら、お話してはいけないんですか?」




彼女は、優しく微笑んだ。


とはいえ、僕は不思議でならなかった。


顔は10人並み、身長も170センチに届かない。


どうみても、こんな美少女に声をかけられるタイプじゃない。




でも、胸の動悸は止まらなくて、『愛』と


話している時とは違う感覚だった。




「今度また同じ講義で一緒だったら、


隣りに座ってもいいですか?」




「う、うん」




僕は感激で声が震えるのを、抑えきれなかった。

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