ヘーゼル

KIKI-TA

第1話 ヘーゼル

 彼女の瞳はどう見ても、自分よりは色が薄

い。薄いというか、それはもう黒目ではなく

茶色も通り越して、薄いとしか言いようがな

かった。でもそのことを彼女と会ったときに

言えるかというと、カゲルには言えない。カ

ゲルはどうしてもそのことが気になる。嫌だ

ということではなくて、不思議な感覚に囚わ

れてしまう。会話をすればどうしても相手の

目を見ることになるから、見るたびにそうな

る。そうなんだ、そうだよね、と自分に言い

聞かせる。いけない、いけない。安易な判断

や先入観で考えてはいけない。まず、知識を

仕入れなくてはと、カゲルは思う。

 きょう彼女と会う前に、カゲルは「ウィキ

ペディア」という検索に「瞳の色」と入れて

調べてみることにした。


(以下、「ウィキペディア」より概略引用)


 ヒトの目の虹彩色(瞳の色)は、遺伝的に

 「ブラウン」「イエロー」「ブルー」とい

 う、3つの色素の混合率で決まる。


【ブラウン(濃褐色)】

 ダークブラウン~ブラウン。ダークブラウ

 ンは黒く見える場合が多く、アフリカ、ア

 ジアで最も多い。ブラウンは南ヨーロッパ

 で一般的である。


【ヘーゼル(淡褐色)】

 ライトブラウンとダークグリーンの中間。

 太陽光に晒されたとき、瞳孔に近い部分が

 ライトブラウンに、その周りがライトグリ

 -ンになることがある。米国やヨーロッパ

 に多い。アジアではほとんど見られないが

 日本の九州、山陽地方にも存在する。


【アンバー(琥珀色)】

 イエローやゴールド・小豆色・銅色などの

 混じった目。狼の目と呼ばれる。光の加減

 で金眼とも呼ばれる。


【グリーン(緑色)】

 南ヨーロッパや東欧、中東中央アジアにも

 見られるが、北ヨーロッパに集中している。


【グレー(灰色)】

 ダークブルーとも呼ばれ、色素の欠落が顕

 著な場合が多い。ロシア、フィンランド、

 バルト海沿岸に多く見られる。肌は非常に

 白く、髪がブロンドか赤毛の人に多い。ギ

 リシアの女神アテーナは「海のグレー」の

 目を持つとして有名である。


【ブルー(青色)】

 碧眼とも言う。北欧に多く見られるが、南

 ヨーロッパ、インド、中央アジア、中東に

 も見られる。


 ちゃんと調べてみないと分からないものだ

と、カゲルは改めて思う。東アジアというか

自分の周りでは、瞳の殆どはダークブラウン。

というか外国人やハーフを除いては。もっと

も瞳を注意深く覗くなんてことは身近な存在

以外では殆どしたことがなかった。

 ヘーゼルなんて呼び名も知らなかった。ア

ンバーも。ヘーゼルなんてヘーゼルナッツを

連想してしまう。それはブラウンとグリーン

が微妙に混じっている瞳らしい。九州や山陽

地方にも存在するなんて知らなかった。

 アンバーは、狼の目と言われているみたい

だ。そう言えば、アラスカの狼たちはこんな

目の色をしていたような気がする。体躯の大

きな彼らに囲まれて、こんな目で凝視され唸

られたらそれこそ身体も意識も硬直して雪原

に倒れてしまうかも知れない。自分には炬燵

のなかの想像でしかない。

 でも光の加減で金色に光る目って本当だろ

うか。狼男は金色っぽい目をしていた気がす

る。太陽の光に当たると元の人間に戻ると書

いてあったけれど。

 それからグレーの瞳。色素が無くなるとグ

レーになるなんて、すごい説明だ。スマート

というか、余計なものを削ぎ落としている感

じがする。ギリシアの女神「アテーナ」の「

海のグレー」なんて想像しただけでうっとり

する。女神という響きが美しすぎる。

 でもやっぱり、ダークブラウン系ばかりの

東アジア人からすると、ブルーのインパクト

は断然大きい。この世の目じゃない、とカゲ

ルは思う。実際に、ブルーの瞳で見つめられ

たらどんな気持ちになるのだろう。そんな経

験はなかったけれど、うまく返事なんてでき

ないんじゃないか、想像するだけでドキドキ

する。

 この前、歯医者に行ったとき、治療椅子の

前の白い棚に「バービー人形」が置いてあっ

た。DENTISTの女医さんと治療に来た

女の子の人形。女医さんの白衣姿も素敵だっ

たけれど二人とも青い目だった。異国の人は

目が大きい。それを見ただけでも治療の憂鬱

さは半減した。

 そして自分の彼女の瞳。

 あの色、ヘーゼルの瞳。吸い込まれるよう

な虹彩。

 そうだ。カゲルは思い出した。

 以前に録画した映像のなかで、目鼻立ちの

はっきりとしたそのヒロインが、彼氏の瞳を

覗き込んだときのあの瞳。ヘーゼルの瞳だっ

たじゃないか。瞳の外周はライトグリーンで

瞳孔の周りがライトブラウンに輝く。アップ

になるほどに、瞳孔を囲むライトブラウンが

迫ってきて、遠目にはライトグリーンがシャ

ープに光る。映像のなかで感じた、吸い込ま

れるような感覚が自分の彼女の瞳と同じだっ

た。

 体温を感じることができる場所で、産毛さ

え数えられるような距離で。

 カゲルにとってそれは何なのだろう。目の

前にあるのに、彼方にあるような感覚。

 彼女に会い、話をする度に思ってしまう。

微かな違和感。それは匂いのようなもので理

屈ではなく、消去しようと思っても、頭で分

かったつもりになっていても、彼女に見つめ

られる度に思ってしまう。どこかに、自分を

納得させている自分がいる。

 社会を構成していく。そうやって地球環境

を生き延びて。氷河期で絶滅の危機にも瀕し

た。微かな違和感は仕方のないことなのだろ

うか。同じものたち同士で集まり、社会を安

全に繋げていくために、何万年という年月を

かけてDNAに刻み込まれた感覚。明らかに

教えられた訳ではなく、世代を超えた積み重

ねのなかで感じるようになったもの。

 自分たちと同じか似たような存在であれば

相手のことは概ね想像がつき、戦略を立てら

れる。想像の範囲内で行動できる。コミュニ

ティが生き残るためには必要だったと。

 彼女がどうって話じゃない。ただ、彼女の

瞳を見る度に感じてしまうもの。微かな風が

頬を撫でていく。それがDNAに組み込まれ

たということなのか。自分の周囲には、ダー

クブラウンの瞳しか無かった。

 それだけのことというのは分かってはいる

けれど。

 そう言えば、宮沢賢治の「風の又三郎」と

いう作品を読んだことを思い出す。その物語

は瞳ではなかったけれど。

 又三郎は赤い髪をしていた。父親の転勤だ

ったろうか、ある日突然、彼は教室にやって

来る。皆がザワついた。風が吹いた。彼は突

然に去っていく。風が通り過ぎていく。彼は

風だったのだろうか。風は彼だったのだろう

か。勿論、短い季節の短い出来事。ザワつい

たこと。又三郎の存在は皆の心のなかに風と

なって吹いた。

 何だか、想像が妄想に変わっていく。カゲ

ルは、徐々に分からなくなっていく。

「だから何を考えているの」

 彼女が質問する。

「ごめん。自分の柄じゃないんだけれど。多

様性って言葉が頭を横切ってしまって。昨日

観たTVのせいかも知れない。希少生物の話

をしていたから」

「あなたのことだから、希少な虫の話じゃな

いの」

 彼女は続ける。

「レッドデータブックに登録された生物のこ

と?」

「希少な蝶とか、生物そのもののことではな

くて、多様性というか、言葉が脳に引っ掛か

っちゃって。多様性。寛容。受容」

 カゲルは応える。

 カゲルの目の前には、彼女のいつもの瞳が

あった。それは淡いインクを通して、細胞が

浮いているように見える。生きた毛細血管。

瞬きをする。瞳孔の周りはライトブラウン。

光の加減でオレンジにも見える。瞳の外周は

ライトグリーンというか、彼女の場合はグレ

ーに近かった。

 多様性か。多様性なんて言ってしまうと。

瞳は人間同士の話だけれど、他の生物、人間

以外の、というよりも人間より遥かに多くの

生物との共存にまで話は広がっていく。

 カゲルの想像は膨らんでいく。

 肌の色では差別がある。これは悲しいけれ

ど現実だ。けれど、瞳の色で差別があったと

は聞いたことがない。でも、もし自分たち同

族のなかに、青い瞳の人がいたらどうだろう

か。自分に生まれてきた子どもの瞳が青かっ

たら。あるいは、漫画にあるような赤い瞳の

人が出てしまったら。遺伝学的には無いか、

可能性は極めて低いのかも知れないけれど。

生物には突然変異がある。現実に現われたと

しても記録に消されていたとしたら。多様性

を認めよう。寛容な社会を築こう。散々と言

われてきたことだ。様々な種が生きていける

社会。でも自然淘汰があって、強い種が生き

残る。

 様々な人種が混合し混血して、何万年か後

には均一化していくのか。ネアンデルタール

人の遺伝子だって、ホモ・サピエンスの遺伝

子の何パーセントかに含まれていると聞く。

でも。ネアンデルタール人は滅んでしまった

種だ。それは自然淘汰ではないのか。彼らだ

って黙って滅んでいった訳ではないだろう。

様々な環境に適応して種は更に細分化されて

いくのか。淘汰されるものと生き残っていく

もの。自然淘汰って何なのか。自然とは。

 カゲルはだんだんと分からなくなる。

 自分一人ではどうにもならない話だ。自分

はそんなに寛容になれない。自分に青い瞳の

子どもが生まれたらどうする。動揺する。周

りには青い瞳の子どもも大人もいない。

 瞳の色がどうだって我が子は愛おしいはず

だ。愛情を抱くに決まっている。守ってあげ

たいと思う。掛け替えの無い存在。愛情を与

えることに変わりはない。青い瞳の子どもは

学校でいじめられる。無視される。悪い言葉

を浴びせられる。自分は子どもと対話をする

だろう。するに違いないと思う。

「多様性って、結局知ること、知って対話を

することじゃないのかしら」

 彼女は言う。

「もちろん99人のなかで1人が違っている

場合に、生物的に排除する気持ちが起きない

といったら嘘になるわ。攻撃的な排除ではな

くても、無視したり、嫌がらせをしたり、集

団から排除しようとすることはあると思う。

生物としてのホルモンの作用として有り得る

のではないかしら。でもね。それを乗り越え

る。新しいパラダイムに進んで行こうとした

ら、相手を知る。相手と対話をしていくしか

ない」

「少数には立ち向かう勇気がいるの。でも、

ホモ・サピエンスには共感力があるはず。あ

ると信じたい。昔の逸話、ギリシア神話に、

パンドラの箱という話があった。パンドラが

好奇心に負けて開けてしまった災いの箱から

ありとあらゆる災いが、世のなかに解き放た

れる。悲嘆、欠乏、犯罪、そして疫病。でも

最後に箱の底にエルピスという一つの言葉が

残る。それは希望と訳されて」

「わたしは、たった一筋の希望、共感力を信

じたいわ」

 カゲルは、彼女の瞳を見つめていた。

「有難う。目の前の現実を受け入れるには、

対話が必要か。勇気も。それが進んでいく道

なのかも知れない」

「そのために言葉が必要なのよ」

「言葉を持たない動物たちは、自然の流れに

任せて淘汰されるか、自分を変えて適応して

いくしかなかった」

「言葉は単なる記号でも、道具でもないわ。

互いが互いと共感するためのもの。多様性を

実現するためにホモ・サピエンスが獲得した

大切な手段だと思う」

 心なしか、彼女の瞳のライトブラウンが濃

くなっているようにカゲルには思えた。光の

加減かも知れなかったが、目にはたくさんの

毛細血管が走っているはずだから、彼女の気

持ちの高ぶりが血管に反応して僅かに拡張さ

せているのかも知れない。

「そう言い切ってしまうことが、大切なんだ

ね」

 カゲルは反応する。

「でもね。カゲルが希少生物を追い掛け回し

ているでしょう。それは、綺麗な蝶であった

り、鮮やかな甲虫であったり。そのおかげで

身近に感じていられたということもあったの

よ。希少な生物は皆綺麗で美しい。思わず目

が止まる」

「蝶繋がりなの?」

 ガゲルはちょっと笑ってしまう。

 別の意味で彼女の瞳も美しい。

 蝶と言えば、希少生物ではないけれど、目

玉のような模様を翅に持った蝶もいる。円い

目玉のような模様が、鮮やかに翅にデザイン

された蝶。それは鳥などの捕食動物に対して

睨むような威嚇効果があると聞いたことがあ

る。やはり、目には目を、なのか。蛇に睨ま

れたカエル、という言葉もある。カエルもや

はり蛇の目の前では金縛りにあってしまうの

か。

 自分こそ、威嚇とか金縛りではないけれど

彼女の瞳に思考が固まってしまうのかも知れ

ない。それはいつも新鮮で、彼女の話す言葉

よりも、その内容よりも、ヘーゼルというそ

の瞳に、毎回、吸い込まれていく小さな羽虫

のように。

 カゲルは彼女に耳を傾ける。

 彼女の瞳孔の周囲は、きょうも生き生きと

ライトブラウンで、瞳の外周はややグレーが

かったライトグリーンだった。






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