第44話 エゴと感情

 塔の中に入ると、独特の匂いが鼻をついた。儀典で用いられる香の香りが、建物に染みついているのだろう。円形の広間には長椅子が並べられており、壁には年代物と思しき燭台が備えられている。講壇

 隅にある錆びついた鉄扉を開く。そこは頂上へ続く薄暗い階段室であり、それまでのかぐわしい香りは埃っぽいカビの匂いに変わる。リーベルデがにわかに咳き込んだ。


「手入れが行き届いていませんね。掃除を怠らないよう、理事会にはきつく言いつけておきましょう」


 口元を押さえ、リーベルデは階段室に足を踏み入れる。


「狭いわね……」


 急な階段を見上げるメローネが感想を代弁してくれた。


「俺が先導します。メローネは後ろを」


「了解」


「気を付けてください。どこからダンジョン化しているかわかりません。またメガロ・リーコスのような魔物が出てくる可能性も十分ありますから」


「心得ています」


 腰の鞘を握り、一歩一歩踏みしめて階段を上っていく。

 ダンジョン化していない空間でも、ひどく空気が淀んでいる。長らく換気もされていなかったようだ。


 無言。三人の固い足音だけが階段室に響く。


「あの……フリードさん」


「は」


 だしぬけに、リーベルデが小さな声を漏らした。


「昨夜のわたしの振る舞いに、失望してはいませんか?」


 すぐに答えることはできなかった。なんと言ったものだろう。

 返答に困っていると、リーベルデはさらに言葉を重ねる。


「自覚はあるんです。子どもっぽいことをしてるって」


「そんなことは」


「だって、あの人も呆れていたでしょう? 見た目は幼いけど、あの人はちゃんと大人です。わたしみたいな権威と肩書を笠に着た未熟者じゃありません」


 なんとも自虐的な言葉だ。

 リーベルデが聖女になれたのは不屈の努力があってこそだろう。運だけでなれるような生易しいものじゃない。


「シャルラッハロート教官は魅力的な女性でした。イヤですよね……こんな嫉妬深い聖女なんて」


 力ない笑いが階段室に響く。

 これから聖務に赴くというのに、彼女のモチベーションは最低だった。

 俺は薄暗い足元に注意しながら階段を上っていく。


「こう申し上げるとなんですが、俺は聖女に対してもっとお堅い印象を持っていました。信仰心の塊。私利私欲とは無縁で、民衆の為にその身を捧げる。普通の人とは違い崇高で尊い存在であると」


 思わず苦笑が漏れた。


「随分と身勝手な考え方ですよね。聖女だって人間です。感情もあればエゴもある。リーベルデ様と出会って、考えを改めました」


「すみません……自制に努めてはいるのですけど」


 振り返らずとも、悄然と肩を落とすリーベルデの姿が目に浮かぶ。人々から崇められる聖女でも、こうやって落ち込むことがあるんだと思うと、何故か安心する。親近感すら覚える。

 リーベルデは人一倍感受性が強いのだろう。だから時に傲慢にもなるし、卑屈にもなる。理性より感情が先行して、後悔することもある。

 けれど。


「俺は、信仰の象徴としての聖女より、年頃の少女らしいあなたの方が好きですよ」


「え……へぇっ?」


 それは聖女にあるまじき、あまりにも素っ頓狂な声だった。


「ね、ねぇメローネ。フリードさん、いま、わたしのこと好きって」


「ええ。言ったわね」


 話を振られたメローネは、必死に笑いを堪えたような声で答えていた。


「あ、あの……それってどういう意味の、好き……なんですか?」


「さぁ、どういう意味でしょう?」


 俺も笑い交じりにはぐらかす。

 恋愛感情でないのは確かだが、それを口にするのは野暮ってものだろう。

 あたふたするリーベルデをよそに、俺はペースを落とさず階段を上っていく。


「ほら、遅れてるわ。ちゃんと足元見て。転ばないようにね」


「わ、わかってるけど」


 メローネが後ろから急かすものだから、リーベルデは慌てて俺を追いかけてくる。

 俺が足を止めたのは、ちょうど彼女が追い付いたタイミングだった。


「あうっ」


 勢いがついていたリーベルデは、そのまま俺の背中にぶつかることになる。


「フリードさん? どうしたんですか?」


 リーベルデともあろうお方が、動揺しすぎて気付いていないようだ。

 一歩先に、濃い瘴気の気配が渦巻いていた。

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