第4話 結束
示談書
甲 有瀬直樹
乙 倉井昴
1 乙は、甲に対し、下記の事項に関する解決金として、金1690万円の支払義務があることを認める。
記
令和○年12月○日、乙がいきなり甲に暴力を振るい、甲に全治2週間の傷害を負わせた件。
また、その際に、甲が身に付けていた、腕時計、指輪、スーツが損傷し、その原因になったことを認め、原状回復の為の支払いをする件。
内訳は次項に記載。
2 傷害による治療費、ならびにその慰謝料 金270万円
腕時計の原状回復費用 金540万円
損傷した指輪の買い取り 金760万円
損傷したスーツの修繕、もしくは買取 120万円
3 乙は、上記第1項記載の解決金を、下記のとおり分割にて、甲が指定する口座に振り込んで支払う。振込手数料は、乙の負担とする。
4 解決金を、全額支払えば、甲は乙への刑事告訴や被害届の提出を行わない。
5 甲と乙との間には、本示談書に定めるもののほか、何らの債権債務関係がないことを相互に確認――
――――
――
「なんだ、これ……」
俺は父親が持っていた書類を見て、頭が真っ白になってしまった。
おそらく先日、掴み掛かったことによるものだろう。
確かに軽率な行動だったと思う。
だが、まさかこんな大事になるなんて、思ってもみなかった。
金額も金額だ。おいそれと一般家庭に出せる額でなく、ともすれば一生を左右しかねないほどだ。
状況に理解が追い付かず、ショックで何も考えられなくなってしまう。
ただひたすら私のせいでと謝り続ける弥詠子さんに、必死に宥める妙に冷静な父親。それと魂が抜けたようになった呆然とする平折。
まるで悪い夢を見ているかのような気分だった。
その後色々何かを話したはずだったが、何か緑色の紙が見えた他は、内容は全く覚えていない。
部屋に戻って、こういう件に関しての情報をネットで調べまくったのは覚えている。
そして気が付けば布団の中にいて、朝になっていた。
「……」
気分は最悪だった。
それでも体に染みつきつつある習慣なのか、半ば惰性でランニングに向かい、そしてシャワーを浴びる。
憂鬱な気持ちで汗を流しながら、しかし何かが引っかかっていた。
1日経って冷静になったのか、普段と同じ行動をとったことで平常心を取り戻したのか、それとも1690万円という現実離れした金額が逆に冷静にさせたのか――いくらか現状について考える余裕が出てくる。
――有瀬直樹は、果たして本気で金を取ろうとしてるのだろうか?
確かに被害届とか示談金とか、インパクトはあった。
考えれば考える程疑問が生まれる。
さすがにあの程度の衝撃で、指輪や腕時計が壊れるとは思えない。
尻もちをついたくらいで、全治2週間というのも信じがたい。
弁護士などを交えて争えば、その額が通るとは考えにくい。
――少なくとも、有瀬直樹の狙いは金じゃない。
そう考えると少しだけ気が楽になると共に、新たな疑問も浮かぶ。
なら一体何が目的なのだろうか?
「昴、さん……っ!」
「平折?」
風呂場を出た瞬間、平折に抱きつかれ。よろけてしまう。
「大丈夫、ですよね? 私の前からいなくならないですよね……?」
そう言って何かを確かめるかのように、ぎゅっと顔を胸に埋めた。
平折らしからぬ大胆な行動に、それだけ不安に思っているというのが伝わってくる。
色々と気付いたことはあるが、楽観視できるというわけでもない。どんな顔と言葉を返――
「大丈夫だよ、平折ちゃん。昴は君の前から居なくなりなんかしない」
「っ!」
「親父……」
どこかやつれた様子の父親が、優しい声で話しかける。
今までずっと弥詠子さんと話をしていたのだろうか?
「だけどこれは俺が原因で……」
「昴も、何も気にすることはないよ」
「しかし――」
「いいかい、昴? 子を守るのは親として当然の感情なんだ。僕は家族を誰かに引き裂かれるなんて――絶対に許しはしない」
「親父……」
父親は真っ直ぐに、俺と平折を見つめた。
疲労がにじみ出ている顔色はしかし、その瞳はどこまでも意志の強さを感じさせ、圧倒させられ息を飲む。
それは何かの覚悟を決めたものの目だった。
頼もしさを覚えると共に、初めて見る父親の姿だった。
「だから昴は、平折ちゃんを安心させてあげなさい」
「……あぁ」
平折はどこか驚いたような顔で俺と父親の顔を交互にみやり、そして何かを納得したかのような色へと変えた。
「2人とも、あまり無茶をしないで下さい……」
そう言って平折は、ぎゅっと抱き付く腕の力をさらに込めた。
◇◇◇
昨日と同じく、俺達は早めに家を出た。隣を歩く平折との距離は昨日よりも近い。
周囲の目を気にしつつ電車を降りると、改札には意外な人物がいた。
「……ぁ」
「ひぃちゃん」
その顔色はロクに寝ていないのかフラフラの様相で、瞳は真っ赤に充血している。
申し訳ないと言った表情で俺を見てくるが、何かを言いたそうな口はどこまでも重い。
そのオロオロとしている姿は昔の平折に酷似しており、やはり異母とはいえ姉妹なんだなと思ってしまう。
――あぁ、ひぃちゃんも示談のことを知ってしまったのか。
態度から嫌でも察してしまった。
どうやら随分と気にしてくれているらしい。申し訳ないくらいだ。
「ぁ、あのっ」
「何も言うな、俺は大丈夫だ」
「でもっ」
「心配してくれてありがとな」
「っ!」
そう言って俺は、平折に接するのと同じ感覚で頭を撫でた。
ひぃちゃんは驚き身をビクリと震わせ、そこで初めて俺は、あまりに気安く接してしまったと気付いてしまった。
「っと、ゴメン」
「ぁ……もう少しこのままで」
「お、おぅ」
しかしひぃちゃんは嫌がる素振りは見せず、むしろもっとしてくれと、甘えるように頭を擦り付けてくる。
それを平折が複雑な目で見ていた。
「おねぇちゃん……」
「……ぁ」
バツの悪そうな顔をするひぃちゃんに、どこか困り顔の平折。
お互い何かを言いたいことがあるのだが、言葉が出ない様子だ。
見つめ合って逡巡する事しばし、苦笑いをした2人は俺の方を見て、頷きあった。
「お、おい!」
その後、2人の姉妹は俺にぴったりと影のように寄り添う。
左に平折、右にひぃちゃん。傍から見れば両手に華だ。しかも2人とも超の付く美少女である。それはよく目立つ。
正直なところひっつくのは止めて欲しかったが、2人の目は真剣だった。
まるで俺を守ろうとしているかのようで、そんな顔をされると嫌とは言えなくなってしまう。
この2人の姉妹の行動は、学校に着いても変わることはなかった。
「昴さんいますか?」
「すぅくん、いる?」
「……またか」
授業の合間の少しの休憩時間でさえ俺のクラスにやってきて、甲斐甲斐しく俺の様子を伺う。
それは学校ともなれば、皆の興味を引くことになる。
もっとも2人の様子があまりに真剣で、色めいた目で見られなかったことが幸いか。
「なぁ昴、何をすれば美少女姉妹から監視されるご褒美がもらえるんだ?」
「傷害事件で訴えられそうになったからかな?」
「おいおい、なんだよそれ」
康寅が茶化してくれて、少しでも周囲の空気を解そうとしてくれているのがわかる。
まったく、よく気が回るやつだ。
だけどその気遣いが台無しになってしまうほどの剣幕で話しかけてくる美少女がいた。
「ちょっといいかしら、昴?」
「……昴さん」
「……すぅくん」
「凜……って、平折? ひぃちゃんも?」
朝、姿を見せないと思っていたが、どうやら午後になって登校してきたようだった。
その気迫に気圧された康寅は、そそくさと彼女達に道を開けて逃げていた。
憤懣やる方なしといった表情で平折とひぃちゃんと頷きあうと、立ち上がった姉妹に両脇から拘束される形で連行される。
まるで3人の心が通い合っているかのよう。
どうやら俺の件を切っ掛けにして、皮肉にも彼女達の心を一つにしてしまったようだった。
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