彼女達の心の裡

第32話 迷惑、なんかじゃない


 俺は目の前の状況に理解が追いついていなかった。


「……」

「……んぅ」


 俺の枕を抱くようにして横になっている平折の寝息は規則正しく、眠りの深さが伺える。

 無防備に晒されている白く柔らかそうな肌に、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。

 つい手を伸ばしそうになってしまうが、目尻の端に残る涙の跡がそれを押し留めた。


 あまりに情報量の多い目の前の光景に、自分の感情の処理が追いつかない。


 ――平折も寝顔を見られるのも嫌だろう。


 かろうじてその考えに至り、強めに肩を揺さぶった。


「平折、起きろ」

「……ん……すぅくん……?」


 平折はうっすらと目を開けた。

 焦点の合わない瞳はトロンとしており、いかにも寝惚けていますと物語っている。


「ひお……え?」

「ん~~~~っ」


 それは完全に不意打ちだった。


 寝転がったままの平折から腕が伸びてきたかと思うと、そのまま首に絡みついてぎゅうっと抱き寄せられた。

 俺は思いもよらない行動に反応することが出来ず、されるがままに先ほどの枕と役目を交代してしまう。


「おい、ちょっ、平折っ」

「うにゅう……」


 慌てる俺など知った事かと、身体を密着させては俺の頭に頬を寄せ、随分と機嫌の良さそうな声を上げた。


 頭に血が上るのは一瞬だった。

 平折のかかる吐息とか、首に回された手の感触だとか、慎ましいけれどそれでもちゃんと柔らかい双丘だとか、様々な事が脳裏に浮かんでは消えていく。


 自分の心臓はこのまま決壊してしまうのかというくらい波打っていた。

 だというのに、抱きかかえられた場所から聞こえる平折の心臓が凪の様な音を奏でているのが、少し憎らしい。


 平折は義妹だ。だがその前に、血の繋がらない一人の女の子だ。

 この体勢はその事を強く、そして急速に意識させられていく。


 ――このまま理性を手放してもいいんじゃないか?


 そんな想いが胸に沸き起こり、本能に支配された腕が動いてしまう。



「やっぱり……すぅくんだと・・……大丈夫……」


「――っ」



 だがうわ言のように呟かれたその言葉が、この手を押し止めさせた。

 平折の顔を覗いてみれば、薄っすらと目尻に涙が見えた。


 それは、どうにもならない事を甘える一人の女の子の姿だった。


 急速に頭が冷やされていく。


 首に回されていた腕をゆっくりと外すと、代わりに枕を抱かせる。


 ――一時の劣情で取り返しのつかないことをするところだった。


 理性でその事が分かっていても、胸には燃え広がった熱が残ったままだ。


「くそっ!」

「――っ?!」


 その炎を鎮めるため、パチンと大きな音が鳴る程自分の頬を叩き、風呂場へと向かった。



 ………………


 ……



 ザアァァァアァ、と頭から冷たいシャワーを浴びて、先程の平折の言葉を思い出す。


「すぅくん、か……」


 それは俺の幼い頃の呼び名だった。

 随分と懐かしい呼び名だった。

 あまり呼ばれた記憶はないが、当時微かに周囲の仲の良かった子に呼ばれていた記憶がある。


 ――なぜ平折がその呼び方を……?


 平折と出会ったのは中学に上がる前の年だ。その頃にはそう呼ばれていた記憶はない。


 ただの偶然か?

 それとも昔、俺は平折と出会っていた?


 わからない……だけど、それよりも気になる言葉もあった。


『やっぱり……すぅくんだと・・……大丈夫……』


 一体、どういう事だろうか?


 ふと、先日のショッピングモールでナンパされていた時や、坂口に呼び出された時の平折の状態を思い出す。

 ナンパの時はこういう事に慣れていないから、驚いて腰を抜かしたのだと思っていた。

 だが坂口の件に関してはどうだ? 彼の性格的に何か強引に平折に迫るという事はしないと思う。


 もしかしたら、そういう事なのだろうか?


 一つ思い当たるとすれば、平折の本当の父親・・・・・なのだが……

 そこまで考えて、頭を振ってシャワーを止めた。


 俺のやるべきことは詮索じゃない。


 いずれ、平折本人が話してくれるかもしれない。

 それまで傍に居て寄り添ってやればいい。


 何より俺が、そうしたいのだから。


「あ、あのっ!」

「平折……」


 風呂場を出ると、平折が待ち構えていた。

 そわそわした様子で、俺を待っていたようだ。

 髪は寝癖が付いたままで、顔はどこまでも真っ赤っか。


「お、お昼寝したら夢見が悪くて……そ、そのっ、寝ぼけて……たんです……っ」

「そ、そうか」


 いつになく真剣な表情で、こちらがたじろぐ位ぐいぐいと迫って力説してくる。


 どうやら先ほどしでかした抱き付いてきた事は、しっかり覚えている様だった。

 それでなくとも、俺の部屋に入り込んで眠りこけていたのだ。

 必死に何かを弁明するのも当然か。


 あまりに必死に言い訳してくるのが可笑しくって、何だか笑いが込み上げてきてしまう。

 そんな俺を、きょとんとした顔で、恐る恐る覗いてくる。


「あの……怒ってない……ですか?」

「全然」


 むしろ可愛らしいものだった。

 それに、夢見が悪くて頼られるというのは悪い気はしない。


「あー、なんだ。それくらい甘えてくれても構わない」

「でも、迷惑――」

「平折」

「――いいの、ですか?」


 どこか怯える様な、しかし期待をするかのような瞳を向けてくる。


 ――一応、俺は平折の義兄あにだからな。


 そんな言葉が喉から出掛かったが、無理やり飲み込んだ。

 自分の中の何かが、それを言うとダメだと――理屈ではわからないが、そんな感情が訴えかけていた。


「……あぁ」

「わぷっ」


 返事の代わりに、くしゃりと平折の頭を強引にかき混ぜた。


 髪が乱れると、抗議の視線を送ってくるが無視をした。

 どうせ既に寝癖でぐちゃぐちゃだ。


 少し嬉しそうにしている平折の顔が、この選択で間違ってはいないと思わせてくれた。




◇◇◇




「はっ、はっ、はっ、はっ」


 翌日の日曜日、俺は朝から住宅街を走っていた。

 平日より遅い時間に関わらず、街はまだまだ静かな様子を不思議と感じる。

 何かをしたいという想いから始めたランニングであったが、休日にまでこなすくらい習慣になりつつあった。


「ただいま」


 たっぷり汗をかいてしまったので、それを流そうと風呂場に直行する。


「……っ!」

「おっと、使用中か」


 出掛けるにはまだ早い時間だというのに、鏡の前で格闘する平折がいた。

 どうやら髪型やメイクに中々納得がいかない様子だった。


 邪魔しちゃ悪いなと改めようとすると、こちらに何か訴えかけるかのような瞳と目が合った。

 これで良いのか、自信なさげな表情をしている。


 前回や昨日見せてもらったときよりも、しっかりとキメていて、服にも非常によく似合っていた。

 これで自信が無いとクラスで言おうものなら、確実に何人か敵を作りかねない――それほど可愛らしいと思える。


 ――必要なのは後押しか。


「大丈夫。自信もてよ」

「……っ! う、うんっ」


 言葉だけではまだ何か足りないという顔は、俺の手へとチラチラ視線を送っていた。

 そっと頭を撫でてやれば、ふにゃりと険しかった表情を崩していく。


「ぁ、ぁりがと」

「……どういたしまして」


 そんなやり取りを終えた後、平折はバタバタしつつも出掛けて行った。

 後姿を見送ったあと、自分の手を眺めてみる。


 サラサラの髪の感触が残っている気がした。


 ともかく、平折は南條凛との買い物だ。


 ――2人の仲が深まると良いな。


 そんな事を考えつつ、俺も汗を流して出掛ける準備をする。

 今日は俺も、南條凛に紹介してもらった美容院に行く予定だった。

 丁度髪も伸びてきた頃で都合がよかったのだが……普段1000円カットしか利用したことが無いので、美容院と聞くと身構えてしまう。


 きっと、南條凛が贔屓にしているだけあって、お洒落な店に違いない。

 そう考えると、手持ちの服でマシなものはどれかと悩んでしまう。


 ――さっきの平折も同じ思いだったのだろうか?


 そんな事を考えながら、家を出た。


 目的の店があるのは、電車で30分ほど行ったところにあるこの地方一番の大都市だ。

 教えてもらった店の名前と住所を、スマホのマップアプリとにらめっこしながら目指す。


 休日の都市部ともなれば、非常に混雑していた。

 まだ朝の10時前だというのに、人で溢れている。

 ここだと遊ぶ場所も多いし、同世代の若者たちも多く見受けられる。


 紹介された美容院は、大通りから1本奥の道沿いの外れにあった。

 いくつかの店が入ったビルの3階だ。


 まるで高級でお洒落な喫茶店を髣髴とさせ、気圧された俺は、思わず財布の中身を気にしてしまった。

 店の前でそんな事をしている俺は、さぞかし挙動不審に見えているに違いない。


「きゃっ!」

「おっと!」


 まごまごとしていると、店から出てきた人とぶつかってしまった。

 どうやら彼女は急いでいたようで、結構な勢いがあり、少しよろけてしまった。


「ごめんなさい、急いで……え?」

「あぁ、こちらも不注意で…………えぇっと、何か?」


 相手は女の子だった。

 美容院でセットしてもらったばかりなのか、緩くふわふわとした髪が特徴的な――とんでもない美少女だった。

 平折や南條凛にも匹敵するほどの容姿をしていた。


 どうしたわけか、俺の顔をジロジロと、信じられないものを見たかのような表情で舐めまわすかのように見てくる。

 そんなに俺がこの店に来るのが可笑しい様な客なのだろうか?


 ――しかしこの子、最近どこかで見たことある様な……

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