第8話
「プロチウム殿下からのお手紙をお持ちいたしました」
フリーネイリスとマグネの婚約お披露目パーティーの二日後、そう言ってアブソリュート伯爵家を訪れたのはクレヌだ。一昨日はパーティーということもあり軍の正礼装だったクレヌだが、今日は軍の実用的な魔導師服に身を包んでいる。それでも詰襟の軍服をきっちり着こなしており、エリーゼの中でのクレヌの凛々しいゲージはうなぎ上りだ。
そんなことを顔には出さず、エリーゼは手紙を開けた。
「この前の手紙でも思ったのですが、プロチウム殿下の封蝋、良い匂いがするんです」
「ああ、それはプロチウム殿下が特別に作らせた蝋ですから。オイルが混じっているのですよ」
「まあ素敵! アロマキャンドルみたいね」
「殿下に頼めば手配してくださいますよ?」
「それはご迷惑だもの、やめておくわ」
「……そう、ですか」
なぜか少し残念そうなクレヌ。そんなクレヌを横目に手紙に目を通すと、そこには簡潔に用件だけが書いてあった。
「あら、プロチウム殿下の領地で隣国のお客様にお会いになるの?」
プロチウムの公務の大半は諸外国との国交に費やされている。
十年ほど前までこの国は隣国と魔導師を主軸にした戦を行っており、クレヌもその戦に駆り出されていたはずだ。だが、その戦で勝利したのち、数年かけ緊張状態にあった国交を正常化させることに王家は尽力した。その一役を担っていたのはまだ当時十三、四歳であったプロチウムだとも言われている。
「プロチウム殿下が外交に力を入れているというのは本当なのね」
「ええ、それはもう……。外交に注力し戦を防ぐことはプロチウム殿下の昔からの願いでしたから」
そう懐かしそうに語るクレヌはどうやらプロチウムの幼少期でも知っているかのような口ぶりだ。
(まあ、実際、クレヌ様は魔導師戦に駆り出されてしまう立場だものね。プロチウム殿下の考えに賛同して今はお近くにいるってところかしら)
「クレヌ様は、プロチウム殿下とは昔からご一緒なのですか?」
「ええ、まあ……。小さい頃からよく知っておりますよ。それで、エリーゼ様、プロチウム殿下からの手紙ですが、最後までお読みくださいましたか?」
「ちょっと待ってくださいね。あら、プロチウム殿下はもう王都を発っていらっしゃるのね」
「はい、視察もかねて遠回りするので、プロチウム殿下は昨日王都を発っておいでです。エリーゼ様にも晩さん会にご同席していただきたいので、七日後までにプロチウム殿下の領地、ノアレ領までお越しください。ドレス類は全て向こうでプロチウム殿下が用意してくださっておりますので、『着の身着のまま来てくれれば良い』と、伝言を承っております」
「着の身着のまま? 護衛はもちろんクレヌ様ですよね?」
「勿論です」
「ちょっと待って……。それじゃあ、お母様にお願いに行かないと!!」
王都はその周囲を外壁と河川で囲まれ、外壁の門や川に架かる橋には検問所が設けられており出入りには許可証が必要だ。
民間人の場合は認可を受けた業者の交通手段を利用することで許可が下り、商人たちは魔導師を護衛として雇うことで許可が出る。
貴族も同様、国からのお墨付きを得た魔導師を護衛としてつけることで許可が出る。
そして、その魔導師達には国への報告義務があるのだ。
それもこれも、十年前の隣国との魔導師戦の発端が一部貴族の隣国への寝返りにあったからだ。それ以来貴族の所在を確実につかむため、王都外に出るには国に忠誠を誓う魔導師を護衛兼監視としてつける義務が貴族には課せられた。
王都内で護衛のために雇う魔導師と、王都外に連れて行く魔導師は若干性質が違うのだ。
(でもクレヌ様なら申し分ないはずだわ)
エリーゼが向かったのは母親の元。軍属魔導師として実力トップでプロチウムの信頼もあるクレヌがいるならば、単身外出も夢じゃない、そう胸が躍った。
だが、普通に考えてプロチウムの婚約者を野放しにするだろうか。
『良いわけないでしょう。プロチウム殿下の婚約者が男性と二人きりなど許されません。クレヌ殿の他に侍女と護衛をつけますから』
そう言われるのが目に見えるが、交渉し甲斐はあるだろう。なんと言っても稀代の天才クレヌだ。クレヌで駄目なら他に適任者などいはしない。
クレヌを引きつれ母親がくつろぐテラスに向かったエリーゼは、「お母様、ただいまよろしいでしょうか?」と、母親相手に緊張していた。
そしてその緊張があっけなく消え去ったのだ。
「良いですよ。ノアレ領に向かうのですね。気をつけて行っていらっしゃい」
「それ、本当ですかお母様!? 本当の本当に、クレヌ様と二人で行ってよろしいの!?」
「軍属魔導師で一番の実力者のクレヌ殿と一緒で、行けぬ場所などこの国にありませんよ」
ため息をつきそう言った母親とは対照的に、エリーゼは「嬉しい!」と自分の中だけでは感情を抑えきれなかったようで、後ろに控えていたクレヌに満面の笑みを向けた。
「リゼ」
「は、はい!」
歓喜に満ちていたエリーゼが母親の声で一気に真面目な顔つきに戻った。
「リゼ、クレヌ殿もお座りなさい」
エリーゼが大人しく母の向かいに座り、その隣に「失礼します」とクレヌが座る。そんな二人の前に差し出されたのは高級な証紙。見覚えがないエリーゼが首を傾げると、隣でクレヌが「身分証?」と呟いた。
「クレヌ殿が護衛としてならば身分を隠さずとも王都外への外出許可などとるのは容易です。ですがリゼは仮とはいえプロチウム殿下の婚約者。良からぬ噂が広がり殿下にご迷惑をおかけするなどもってのほかです。ですから、二人には王都外に出るにあたり身分を偽ってもらいます。この用紙は二人の偽の身分証です。万が一にでもリゼの身分が露見し、アブソリュートに一報が入れば即座に侍女と護衛を向かわせます。条件をのめますね」
「勿論です!」
エリーゼは元気よく返事をしたが、その隣でクレヌがポツリと呟いた。
「え、偽の身分証を作って一般市民を装うなら、魔導師が護衛の必要はないんじゃ……」
そんなクレヌの呟きは相手にせず、エリーゼの元気な返事に頷いた母親は、呼びに来た侍女に連れられてテラスを後にした。残ったのは、はち切れんばかりの笑顔のエリーゼと、微妙な顔で身分証を見つめるクレヌだけだ。そのクレヌは、身分証を見て頭を抱えた。
「エリーゼ様、元気に返事をしていらっしゃいましたが、少しお考えになった方がよろしいかと思います」
「そんな……。クレヌ様は私と二人きりのお出かけは嫌だと仰るのね。迷惑はかけません。クレヌ様の仰ることは絶対に守るし勝手な行動は致しません!」
エリーゼは立ち上がった。
「ですから、どうかクレヌ様が断るなどと仰らないでください……」
そう頭を下げて懇願すれば、すぐに顎を持ち上げられ上を向かされた。そのまま肩を押されて椅子に座らされると、クレヌは膝をついてエリーゼの手を取る。神秘的な黒い瞳に見上げられ、エリーゼの心臓が少し駆け足を踏み始めた。
「私はエリーゼ様との二人旅が嫌だとは一言も言っておりませんし、エリーゼ様がお好きに動かれても守るくらいの器量は持ち合わせております。私が考えた方がいいと申しあげたのは、この身分証の内容が内容だからです。きちんとご覧になってください」
クレヌが差し出した身分証に目を通したエリーゼ。そして、その内容を口にした。
「『クレヌ・ケーリア 二十歳 男性』 これはクレヌ様のね。お名前はそのままなのね。で、私は……。『リゼ・ケーリア 十六歳 女性』 あら、ファミリーネームが一緒?」
首を傾げたエリーゼの目に『特記事項』という項目が飛び込んで来た。
「『特記事項 婚姻成立日 二月十六日』……って、婚姻!? ふ、夫婦!?」
「よろしいのですか? エリーゼ様」
「そ、そんなの設定だけよね。別に事実じゃないもの、私は平気です! 気にもしません!」
「気にもなさいませんか? それは流石に私が傷つきます……」
「え!? 申し訳ございません! でも、変に注文をつけて母の機嫌が変わってしまう方が怖いのです。駄目でしょうかクレヌ様……」
頼むから駄目なんて言わないでほしい。その願いを込めて、エリーゼは自分の手を取っているクレヌの手を下から包み込んだ。
「……分かりました。エリーゼ様がお嫌でなければ構いませんよ」
「まあ、ありがとうございます! そうと決まったら準備しなくては! 何をもっていけばいいかしら……」
ノアレ領までは、北部方面への馬車を乗り継ぎ片道三日。途中大きな町がいくつかあるため、間違っても野宿とはならないだろう。だとしても選別に悩む。「うーん」と首を捻りながらも顔が緩んでいるエリーゼに、クレヌが「よろしいでしょうか?」と声をかけてきた。
「エリーゼ様、持ち物は絶対に無くてはならない物だけにしてください。途中に町がありますから、万が一何か必要になったら買えばよろしいのです。持ち物の選別は、一人でなさらず、絶対に侍女殿となさってください。そして、その方の意見は絶対に聞いてください、絶対に」
「わ、分かりました」
クレヌに念を押されたエリーゼは大人しくマギの言うことを取り入れることにした。
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