第5話

 家に帰ったエリーゼを出迎えたのはマギだ。その手にはトレー、そしてその上には一通の封書が載せられており、それを恭しく差し出された。


「これは……」


 封蠟には見覚えのある、いや、忘れてはいけない白百合の紋章。

 白百合の紋章は王家の紋だ。そして、微かに嗅いだ記憶のある香りがする。


「まさか、これ」


 手際よくナイフで封を開けると整然と並ぶ、まるでスタンプで打ったかのような几帳面な文字。その文面からもその人の人格がありありと感じられる手紙は間違いなく、プロチウムからのものだった。


「マギ、今週末の件よ。フリーネイリスとマグネ様の婚約のお披露目パーティーにプロチウム殿下はご出席されないみたい」

「宰相家のご令嬢であるフリーネイリス様の婚約となれば、殿下はいらっしゃるべきでしょうに。何故ですかね? ご公務ですか?」

「そうみたい。でも、行けないから私にお詫びの手紙を下さったわ。ほんと、真面目ね」

「それはそうです。仮とはいえ婚約者。その辺のお茶会ではないのですよ。お嬢様にプロチウム殿下が帯同されて然るべきです」

「厳しいわね、マギ。でも、代わりにクレヌ様がいらっしゃるみたいよ!」

「クレヌ、殿、がですか……。なるほど、理解しました」

「何かしら。一体、今のどこで何が分かったというのよ!?」


 エリーゼの疑問になど応える暇もなく、マギは『パァン!』と、手を叩いた。


「さあ! お嬢様!! 勝負は今週末、フリーネイリス様とマグネ殿のお披露目会です!」

「何、なんの勝負!?」

「決まっています。婚約者になり損ねたフルーエルト公爵家のリチェルーレ様がお嬢様にちょっかいを出さないとでもお思いですか? プロチウム殿下がご一緒ならともかく、お一人でいるお嬢様が蛇に睨まれた蛙が如く困り果てる姿が目に浮かびます! ここは是非とも立ち向かっていただきたく思うのです!」

「……普通に考えてそれは無礼よね? フルーエルト公爵家は――」

「四代前に王家から降嫁された姫君が嫁がれている名門ですね。ですが、お嬢様は仮とはいえプロチウム殿下の婚約者! ここは『未来の王妃は私よ』とでも強気にいかなくては!」

「待って! どうせそのうち無に帰す婚約話でしょ!? そんなことしたら私の胃が死んじゃうわ!」


 威張り散らした挙句に婚約を解消される。どれだけプロチウムが婚約解消時にエリーゼの不利にならないよう取り計らうと言ってくれても、自分の行いで厄介ごとを招いてはたまったものじゃない。「未来の王妃は私よ」などとは、自信に満ち溢れていなければ口が裂けても言えるセリフじゃない。そして、そんな自信はエリーゼには皆無だ。だが、マギは聞く耳持たない。


「そんなことはございません。外でのお嬢様の立ち居振る舞いは完璧なのです。ですが、それゆえにご自身の御立場も完璧に把握なさっている。出過ぎた真似をせず、目立つこともない。美点ですが、こうお考え下さい。もしも、『アブソリュート伯爵家の令嬢を推す貴族が他にいれば、正式にプロチウム殿下の婚約者になる可能性もある』と」

「いえ、ないわよ! というかなりたくないわよ!」

「いいえ、ございます! 王子の妃など貴族の派閥の優劣の象徴と言って過言でございません! フルーエルト公爵家と対立する貴族が、妃の対抗馬としてお嬢様を担ぐ可能性などいくらでもございます!」

「マ、マギ?」

「そのためには、リチェルーレ様に屈してはなりません。堂々と対抗できる様を見せないと! この度のフリーネイリス様の会は実に好機! 振る舞いはもちろん、外見も負けてはなりません! 頭からつま先まで残りの時間で仕込みますよ! ドレスも選びなおしましょう」

「わ、私はマギのお人形じゃないのよ」

「百も承知です。私は常にお嬢様の幸せを願っておりますから」


 そう恭しく一礼したマギ。その後ろで今か今かと待ち構えていたのはメイド軍だ。「お連れして!」というマギの命に従う彼女たちは、「やめてー!」と叫ぶエリーゼの言う事には一ミリも従ってはくれなかった。




「お嬢様、ご機嫌お直しください」


 アロマオイルを垂らした浴槽に放り込まれ、丁寧に髪を洗われ、出てくればマッサージ。そして指先のケアをしつつ、髪の手入れ。最初こそは嫌がっていたが、マッサージの頃には空腹も忘れて寝てしまい、すっかり気持ちよくなり怒る気も失せた。そうすると疑問がわいてくる。


「なんでみんなそんなにやる気に満ちているの?」

「当たり前です! 相手がリチェルーレ様だろうと関係ございません。お嬢様が一番ですから!」

「それに、磨かれたお嬢様をご覧になればプロチウム殿下もきっと、一時の婚約ではなく、手放したくないと思われるはずです!」

「そうはならないと思うけど……」


 なんせ、リチェルーレとの婚約を先延ばしにしてまで探したいという思い人がいるのだ。どう考えてもエリーゼにコロッと気持ちが傾くはずがない。そう思いはしたものの流石に口には出せずにエリーゼは大人しく会話の弾むメイドたちにされるがままにされていた。


「あら、そのヘアオイルは?」

「お気づきになりましたか!? 流石はお嬢様! 街で流行っている原産が怪しい『ルール』の物じゃありませんよ。アブソリュート領で保管されていた、とっておきの物です! この時のために精油自体を取り寄せて作りました!」

「まさか……!」


 エリーゼは眠気も空腹も吹っ飛ぶ勢いでメイドが持っている瓶を見た。その持つ手が若干震えており、彼女の横には鍵をかけることができる箱が置かれている。


「シ、シャスター? 『シャスター』ね! 嘘でしょ!? お父様が家宝にしてもおかしくない代物よ!?」


 褐色の瓶に入れられており色味は分からないが、人生で一度しか嗅いだことのない香り。でもそれは、エリーゼの記憶にハッキリと刻まれている。


「懐かしいわ。小さい時、初めての両陛下へのご挨拶に緊張して家から出たくないと駄々をこねたときに、お母様が髪につけてくださったわ」


 当時はその価値は分からないエリーゼだったが。いたくその香りを気に入り、欲しいと懇願したところ、その価値を切々と父親に説かれて慄いたほどだ。


 『シャスター』は不定期に『シャスターの木』から採れる花から搾られるオイルだ。シャスターの木は常葉低緑樹で、『硲の森』という場所にのみ生息する比較的珍しい植物。だが、その花や実となると希少性がぐんと跳ね上がる。シャスターの花と実が成るのは不定期、それも、月とか年とかの単位じゃない。前回は十年前に採取できたが、その前は約三百年前。そう文献上の記録が残っているだけの非常に珍しい生態の植物なのだ。

 その花からとれるオイルとなれば超貴重で、小瓶一つで十年は遊んで暮らせるほどの値段がつく貴重かつ幻のオイル。他のオイルとは違い経年劣化せず香りが変わらないオイル、それが『シャスター』だ。


「驚いたわ……」


 父親の許しがなければアブソリュート領を出ないであろうこのシャスターのオイル。それを送ってくる父親の歓喜の具合が手に取るようにわかり、エリーゼは深くため息をついた。

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